創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(29年度11月座談会御書・日妙聖人御書)

我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし彼の功徳を全体うけとる故なり、

経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文 なり

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今月の座談会御書は「日妙聖人御書」ですね。

日妙聖人は、乙御前のお母さんと言われている人で

鎌倉から幼き乙御前を連れてはるばる

佐渡におられる大聖人に会いに来た強信の女性です。

「小説・日蓮大聖人」にも登場しますが

当時女性一人で幼子を連れて鎌倉から佐渡までいくのは命がけで、

日蓮大聖人と佐渡でお会いした時の描写は涙なくては読めません。

是非、みなさんも「小説・日蓮大聖人」読んでみてください。

この「日妙聖人御書」は、別名「楽法梵志書」ともいって

最初に、楽法梵志・釈迦菩薩・雪山童子・薬王菩薩・不軽菩薩・須頭檀王が

不惜身命の修行の結果、仏法を会得したことが書いてあります。

その後に我々の末法の凡夫はそのような修行ではなく

「妙の珠」すなわち「大御本尊」を受持すれば

諸仏菩薩の功徳を受けることができると書かれています。

これは、観心本尊抄に書かれている

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う

となおなじことを言われています。

さて、今日はそこではなく「如我等無異」について少しやりますか。

「如我等無異」とは法華経方便品に書かれている言葉で

「我が如く等しくして異なること無からしめん」と読み、これ仏の請願です。

創価風にアレンジしちゃうと、「師匠は弟子に自分と同じ境涯になって欲しいと願っている」

なんて話になっちゃうけど、

何が悲しくて、末法の荒凡夫である大作センセと同じ境涯にならなくてはいけないのか?

大作センセと同じ境涯になったところで成仏できないちゅ~の。

まぁ、楽して儲けて酒池肉林?そんな境涯を望む人はど~ぞご勝手に。

ただし一度死んだら最後だからね(笑)

あとに待っているのは無間地獄(怖)

そんな創価のコジツケ師弟論は置いておいて

先にも言ったように「如我等無異」とは仏の誓願であり仏の出世の本懐だ。

仏の誓願・出世の本懐とは開示悟入の四仏知見、

即ち衆生の仏界を湧現させることである。

要するに一切衆生に成仏をさせることが出世の本懐だ。

一切衆生が成仏をすることを「如我等無異」と言うわけだ。

で、【法華経を心得る者は釈尊と斉等なり】というのは

【大聖人が末法のご本仏である】と言われている部分である。

法華経を心得る】というのは、一念三千の法体を所持していることであり

釈尊と斉等】というのは、その法体の教法を示すということである。そして

◆今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし(上野殿御返事)

と言われているように、末法においては南無妙法蓮華経の法体と教法を所持されている

大聖人が教主釈尊末法のご本仏ということである。

そのご本仏である大聖人が「如我等無異」の大慈悲のもと

我等末代幼稚の為に御建立してくださったのが

弘安二年の本門戒壇大御本尊様なのだ。

◆一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う(観心本尊抄

創価の言う民衆仏法の確立?

そんなモノは出世の本懐でもなんでもない。

一大秘法なくして正しい民衆仏法など確立できる道理がない。

創価の言っている民衆仏法ってのは、単なる新興宗教の確立であり

そんなものが確立することをご本仏は誓願していない。

次に総じていえば【法華経を心得る者】というのは

ご本仏・日蓮大聖人=大御本尊を信受した我々ということになる。

先の観心本尊抄に書かれているように、

我等末法の凡夫は自力で法華経を心得ることはできない。

皮をはいだり骨を筆にしたり肘を焼いたりそんな修行はできない。

それでも、法体であるご本仏の色心二法の大御本尊を信受すれば

その、因果の功徳を自然に受け取ることができると大聖人が仰せである。

その因果・功徳は、教主釈尊=大聖人と等しいということになる。

そしてそうなってこそ「如我等無異」とのご本仏の誓願

事の上で顕したことになる。

つまり、大御本尊を信受し功徳を受けること。

それこそが大聖人仏法の正義を示したことになり

その人こそが大聖人の弟子なのである。

「師匠の仇討ち」とか「師匠の正義を証明する」とか

そんな俗で安っぽいことをいうのは、

安っぽい弟子であり、安っぽい師匠だという事だ。

大聖人にお応えするのは自身がが強情な信心で功徳を受けることだ。

ただ、勘違いしないで欲しいのは

いくら大聖人と等しく功徳を受けたからと言って

「俺は大聖人と同じである」と思うのは大きな間違いだからね。

それじゃ「創価森」の管理人と同じになっちゃう。

「能」(ご本仏)と「所」(我々)との違いをはき違えないようにしてほしい。

俺たちには仏と同じ功徳を受けることはできるが

他人に仏と同じ功徳を受けさせることはできない。

これが、能所の違いである。

そんなわけで、冒頭に戻るが日妙聖人。

大聖人を求めてはるか佐渡まで会いに行く。

その求道心と大聖人への恋慕の思いには感動する。

どこかの婦人部は、大御本尊にお目通りしなくてもいいのよ。といって

大聖人をあっさり捨てる

この違い。

日妙聖人の爪の垢を煎じて飲むといい。

この御書はそんな日妙聖人に与えられた御書である。

創価の連中に与えられた御書ではない。

自分たちが功徳を受け取れる身分かどうかよく考えてみたらどうだ。

大聖人に恋慕の気持ちがあるのならば

大聖人を求める気持ちがあるならば

そして、本当の功徳を受け取りたいのであれば

自分はどうしたいいか?

学会員のみなさん一人一人が考えた方がいいと思う。


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