今日は寝言丸さんの質問への回答を書きたいと思います。前回コメント(9月27日)にはいくつかの質問が有ったので私なりに質問の趣旨をまとまると①一切衆生が自分の父母かどうか?(一切衆生が父母だから報恩の為に折伏をするのか)②末法の凡夫は本未有善なので大聖人仏法に縁がないのか?③創価学会員(謗法者)は眷属になるのか?の3点になるかと思います。
①一切衆生が自分の父母かどうか?(一切衆生が父母だから報恩の為に折伏をするのか)
まず引用された「法蓮抄」の当該部分は仏の修行時代の話ですね。「一切衆生を自分の父母」として仏は修行した。ということで、学会幹部からいわれた「自分が出会う一切衆生は過去の父母である、故に自分が出会う人達は父母であり、親孝行の爲にも折伏してあげるのだ。」という趣旨の指導はちょっと違いますね。ただし
◆いかにいわうや仏教をならはん者父母師匠国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智 者とならで叶うべきか
と言われているように折伏の意義のひとつとして報恩という行為が挙げられます。そして報恩すべき相手は「四恩抄」には、一には一切衆生の恩、二 には父母の恩、三に は国王の恩、四には三宝の恩、の4つを挙げています。因みに「報恩抄」では、一には父母の恩、二には師匠の恩、三には三宝 の恩、四には国王の恩と書かれています。なので折伏の意義としては「父母の恩」限定ではなく、あくまでも「四恩」への報恩になります。創価の場合は三宝への報恩が全くなくむしろ三宝を足蹴にしてますけどね。
②末法の凡夫は本未有善なので大聖人仏法に縁がないのか?
本未有善ですから「下種」を受けていないという意味でいえば久遠元初においては「縁がなかった」といえますが、日寛上人のご指南に
◇末法今時は全く是れ久遠元初なり(中略)久遠は今に在り今は則ち久遠なり
とあるように、この末法は全く久遠元初と同じですから、むしろ末法の衆生は久遠元初自受報身如来である日蓮大聖人に有縁の衆生です。逆に我々末法の衆生は釈迦如来に無縁なんですね。末法即久遠というのは久遠と末法はいくつも共通点があるのですが今回の質問に即していれば久遠元初にご本仏が久遠の衆生にこの本因の妙法を下種する以前は全ての衆生は「本未有善の衆生」だったわけなので衆生の機縁が同じとういうことです。さて、久遠に下種を受けた衆生は、法華文句によるとその後4種類の衆生に分かれました。1番目は南無妙法蓮華経の教えを下種されその功徳を聞いて一度は信じたものの以後退転した。これらの衆生は、南無妙法蓮華経を誹謗しないが、不信謗法となり長い年月にわたり何度も釈尊のような垂迹仏に出会い徐々に、根本の仏種(南無妙法蓮華経)を調熟させた。2番目は久遠元初に仏から折伏されて南無妙法蓮華経の下種を受けそのまま素直に信心してすぐに成仏しその後、常に本仏の化導を助けるため、いつでも、どこででも一心に南無妙法蓮華経の仏法を受持し続けていく衆生。 これがいわゆる「地涌の菩薩」です。3番目は久遠元初に仏から下種を受けたがその時ですら信じることがでず本仏や本法を誹謗し四悪趣に堕ち永遠の時を経て謗法罪を少しづつ消滅させ三千塵点劫に大通智勝仏と出会い、その仏によって再び法華経を聞かされて成仏した人。釈尊の弟子とかです。4番目は久遠元初でも仏の言葉を信じることなく、以後垂迹仏に出会っても信仰心を持つこともなく、インドに釈尊の法華経に接し、仏法に多少の興味を持ったけど釈尊の在世では成仏はできなかった。正法・像法時代に方便の諸経を縁として仏種を調熟しながら徐々に成仏していった人です。(これを四節三益といいます)さて末法の今は久遠同様本未有善の衆生にご本仏たる大聖人が下種を開始した時代ですから当然久遠と同様に下種を受けた衆生も4種の衆生に分かれます。そのなかで大御本尊を信じ大聖人仏法を行じる我等日興門流は上記の「第2類」の衆生ですから「地涌の菩薩」となるわけです。「縁がない」どころか我々こそが久遠からの大聖人の直弟子なのです。自信をもっていきましょう。
③創価学会員(謗法者)は眷属になるのか?
何をもって眷属というかでしょうね。総じていえば我等末法の衆生は本未有善の衆生ですからそうした意味では「眷属」でしょう。
また別していえば「地涌の菩薩」は本仏の眷属であり、創価のごとき謗法者は「魔の眷属」ですから「眷属」ではありません。しかし
◆たとひ明師並に実経に値い奉りて正法をへたる人なれども生死をいで仏にならむとする時にはかならず影の身にそうがごとく雨に雲のあるがごとく三障四魔と申して七の大事出現す(三沢抄)
とあるように「魔の眷属」はつねに「本仏の眷属」に付きまとっているストーカーみたいなものです。(まさに創価みたいですね)
◆法華宗の心は一念三千性悪性善妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり(治病大小権実違目)
とあもあるようにそもそもが「仏の眷属」と「魔の眷属」は一体ですから創価のごとき謗法者も「眷属」であると捉えていいかと思います。創価のごとき謗法者であってもいつ「仏の眷属」に変わるかもしれません。私だってまた創価から正宗に移籍した方々も「魔の眷属」から「仏の眷属」になったわけですから「謗法」は「謗法」として破折すべきですが、「謗法者」と忌み嫌うのは地涌の菩薩としは間違っていると思います。広宣流布は「オセロゲーム」みたいなものです。「白(仏)」チームは「黒(魔)チーム」をひっくり返すわけです。白で白を挟んでも意味がないと思います。黒をひっくり返すように、また自分が黒にひっくり返されないように自戒したいですね。
今回の回答の相変わらずつらつらと思っている事だけ書いてしまい分かりずらいかもしれませんが、このようなことに疑問を持ち自分で学び吸収することによって教学が強くなり信心が強くなります。私も教学を真剣にやり始めたのは顕正会や身延そして当時の法華講員と法論したことがきっかけです。味方より敵が善知識なんですね。そいうった事も考えると謗法者とはいえ眷属ではないかと思う次第です。