創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

等覚一転名字妙覚について(RAMBOさんの質問)

●せっかく六即の【名字即即究竟即です。】まで出たので、【等覚一転名字妙覚】についても教えてくださいな

との質問がRAMBOさんよりありましたのです今日は、【等覚一転名字妙覚】について書いてみたいと思います。これは以前に未熟さんの【末法は受持の一行】というコメントにも繋がるはなしです。日寛上人が「法華取要抄文段」の中で、

◇若し当流の相伝は「等覚一転・名字妙覚」と習うなり。然れば則ち初め発心より終り補処至るまで、皆久遠名字の妙覚の位に入るが故に、別して更に妙覚の益を挙げざるなり。

とご指南されているように【等覚一転名字妙覚】とは当宗相伝法門のひとつです。「名字妙覚」というのは創価民も良くつかう「名字即即究竟即」の法義で(当宗相伝法門を盗んで使うのはやめなね創価民さん)即身成仏の法門でもあります。まず六即というのは天台が立ててた6段階の菩薩の位です。そのうち名字即の位とは下から二番目の位で大聖人仏法でいうと南無妙法蓮華経を受持した位ですね。そこから修行を重ねていくと上から2番目の位である「等覚」という位になります。この上が「妙覚」でこの位は既に仏なのでそれに「等しい位」の「等覚」は菩薩の最上階級になります。修行して仏と同等になった菩薩はここで初めて仏の悟りに気が付きます。仏が仏になった因を知るわけですね。仏が成仏した因は何かというと、

◆釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき(三世諸仏総勘文教相廃立)

ということだ等覚の菩薩は知ります。総勘文の上記の御文を会通すると、久遠元初の本仏は我が身を南無妙法蓮華経と即座開悟して即身成仏をしたということです。いいかえれば「南無妙法蓮華経を受持する」ことが成仏することであると等覚の菩薩は悟るわけです。修行して等覚の菩薩に昇ってみれば「南無妙法蓮華経を受持する」という名字即の修行が仏の悟り(成仏の道)であったと知るわけです。そしてその名字即の修行で即身成仏するのですから名字即の位は全く妙覚(仏)の位だというわけです。それが【等覚一転名字妙覚】ということです。つまり「名字即極(妙覚)」なのです。では何故釈迦仏法における菩薩達は修行して昇格する必要があったかというと。釈迦仏法の衆生は一度そのことを五百塵点劫の釈迦から聞いているんですね。要は既に南無妙法蓮華経の下種を受けている衆生ななのです。それを忘れていたので段階的に修行をして徐々に思い出すように仕向けたわけです。そしてそれを思い出す位を「等覚」の位と定めたのが天台大師です。ところが末法の我々は南無妙法蓮華経を過去に聞いたことのない衆生ですから「思い出す」という作業は不要なんですね。南無妙法蓮華経を素直に受持すればそのまま即身成仏するわけです。ですから末法衆生の修行は「受持の一行」でいいのです。自余の修行というのは「受持の一行」をさせんがためのある意味方便であり釈迦仏法の範疇です。ですから受持をすればその一行に自余の修行も含まれてしまうわけです。日蓮大聖人はそのご自身の久遠元初のご本仏の悟り(因行果徳)を大御本尊として顕し末法万年の我等衆生に残されてのです。宇宙の法則や衆生の心の法を図顕したのではありません。あくまでも「ご本仏の悟り」が戒壇大御本尊であり戒壇大御本尊は御本仏そのものなのです。ですから我等衆生はこの戒壇大御本尊を総体の御本尊とし受持することで「名字即」という凡夫の位のままで「妙覚」という仏の位に昇るわけです。簡単にまとめると菩薩が長い間修行を重ねて最上位になって知ったことは、「御本尊を信じて自行化他の唱題をする」という自分達が一番最初にしていた修行を仏はしていた。わけです。もっと小難しい説明できなくはないのですが、【等覚一転名字妙覚】というのは概ねこのような事をいいます。

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