創価ダメだしブログ

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御遺命の戒壇とは何を指すのか?(メールのご質問への回答)

過日、顕正会破折の記事で戒壇義について書きましたがそれについて顕正会員や法華講員さんから数通メールをいただきました。その中でいわゆる「御遺命の戒壇」とは具体的に何を示しているのか?という質問が有ったので今日はそれについて書きます。大聖人の御遺命とは、

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

の『日蓮一期弘法付嘱書』を指しています。そこで大前提として当書に書かれている御遺命とは日興上人だたお一人に対して御遺命されているので、この御遺命戒壇は御歴代上人お一人に対する御遺命です。分かりやすく言うならば、『広宣流布(法華弘通)』が総付属であるのに対し『御遺命戒壇建立』は、唯授一人の別付属です。ですから、浅井顕正会ごときの異流義・他門流は当然のことながら、正宗僧俗においても御遺命戒壇について詮議・談義すべき内容のモノではありません。浅井顕正会ごときの邪義を破折するような特別の場合を除いては日顕上人の

◇未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。それこそ本当に不毛の論であります。(近現代における戒壇問題の経緯と真義)

との御指南にあるように御遺命戒壇論議は不毛です。なぜ不毛であるかといえば、御遺命戒壇とは事相ことです。事相とは化義ですから日有上人の化義抄で日興遺誡置文との内容の相違があるのと同様に時代背景によって変わるわけです。顕正会は過去の御歴代上人の御指南を引用して正宗批判をしますがそれは化義と化法を混同してる幼稚な批判でしかありません。そして前述の通り御遺命戒壇についてのご判断は時の法主上人が決定するのですから、昔の御歴代上人と現法主上人との御指南に相違があれば当然、前判ではなく後判の御指南を採るのです。「国立戒壇」という言葉の取捨などまさしくこの例に当てはまります。さてその大前提に立ち御遺命戒壇についての私見を回答します。御遺命戒壇と言う言葉から、御遺命戒壇戒壇堂或いは本門寺の本堂といった堂宇(建物)の事だと思ている人も大勢いると思います。顕正会員に至っては、浅井昭衛を筆頭にほぼ全員が(国立の)堂宇を建設することが御遺命の戒壇を建立することだと考えていると思いますが、私の考えは違います。日達上人は「戒壇について」の御講演で、

◇建立の言葉は御本尊安置をいうのであります。(日達全集第5巻)

と明確に御遺命戒壇の【建立】とは【(戒壇大)御本尊のご安置の事である】と御指南されていて私はこの御指南に大いに納得しています。何故なら、戒壇建立=大御本尊ご安置。とすると御遺命戒壇建立に関する全ての御指南がすんなりと腑に落ちるからです。日達上人の御指南は、「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇大御本尊を御安置すべきなり」と言う意で、「事の戒法」とはこの戒壇大御本尊に唱題申し上げることであると納得するわけです。これが【建立】を堂宇と捉えてしますと、事の戒法=堂宇という意味になり、どうも納得がいかないのです。もちろん戒壇大御本尊を野晒しにするわけにいきませんから堂宇は必要ですが、「堂宇ありき」ではないと思います。戒壇大御本尊を御安置した堂宇がそのまま本門寺の本堂になるという事だと理解しています。仮に国立の戒壇堂を建設してもそこに戒壇大御本尊がご安置されなけば御遺命戒壇にはなりませんからね。さて、私のいうご安置とは単に戒壇大御本尊が存在する場所・空間という意味ではありません。例えば自宅に御本尊があっても誰も勤行唱題、お給仕しなければ本当の意味でご安置したことになりません。ですから現在の奉安堂も大御本尊がご安置されいるけど一般に公開されず秘仏として内拝のみが許されている状態で、お樒等も供えられていませんから「正式なご安置」ではないと思います。また昔の正本堂戒壇大御本尊は秘蔵したままなので「正式なご安置」ではありませんから御遺命戒壇にはなりません。

◇まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます(日達上人御指南)

では「正式なご安置」とはどういう状態なのかと考えると、

◆三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり(三大秘法抄)

戒壇大御本尊が全ての人天が自由にお目通りし、その前で勤行唱題を申し上げる状態になることが「正式なご安置」した状態だと考えます。(戒壇大御本尊を公開できる状態)その為には広宣流布が達成しなければなりません。広宣流布が達成した暁に戒壇大御本尊を正しく御安置(全ての人々に公開)することが御遺命戒壇の建立である。そしてそれがどのような建物(堂宇)であっても、そこが本門寺の本堂になる。というのが日達上人の御指南であると私は捉えています。もちろん、これは私見です。冒頭に書いた通り御遺命戒壇建立は別付属ですから法主上人以外が「こうである」と断言すべき事項でありません。ですから今回の記事もひとつの意見として参考程度に読み流していただければと思ってます。ともあれ、我々信徒がなすべきことは御遺命戒壇を詮議することではなく、御遺命の戒壇が一日も早く建立されるように門内僧俗・異体同心にして折伏・弘教に励むことだと思います。

 

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