創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

顕正会のインチキ遥拝勤行を破す。

創価の方便自我偈1座のインスタント・インチキ勤行が有名だが顕正会創価に劣らないインチキ勤行を会員にやらせている。顕正会創価同様に平成10年に五座三座から方便品・寿量品の「一遍通し」の1座の勤行に変更している。(創価は平成16年に五座三座廃止)在家異流儀の連中はよほど五座三座の勤行が辛いらしく勤行嫌いのようだ。(笑)そんな勤行もまともにできない創価顕正会が大きく違うのは顕正会の会員は自宅に本尊がないので「遥拝勤行」という形式をとっているというところだ。「遥拝勤行」についての顕正会の説明は(以下黒太字は浅井顕正会の説明)

▼遥拝勤行とは、富士大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を、わが家より遥かに拝みまいらせる勤行であり、その功徳は御本尊の御前で行う勤行と全く同じである。(顕正会・基礎教学書 )

とのことだが本来の「遥拝」とは大石寺丑寅勤行後に客殿西側の遥拝所から戒壇大御本尊を拝する化義でこの義を開いてまだ自宅に御本尊を安置していない内得信仰中の信徒が富士大石寺の方角を向いて勤行・唱題することを「遥拝」という。当然これは御本尊を御安置するまでの間の暫定的な修行であるから「正しい勤行」の化義ではない。さらに浅井は

▼遥拝勤行において大切なことは、我が家と戒壇の大御本尊といかに距離があろうとも、眼前に大御本尊まします、直接拝みまいらせる、との思いに立つことである(顕正会・基礎教学書 )

といっているが、戒壇大御本尊にお目通りもしたことない顕正会員が戒壇大御本尊をどうやって思い浮かべることができるのか?浅井は以前は内拝したことがあるからいいが、一般会員は戒壇大御本尊を見たことが無いのだから思い浮かべることなんかできないだろう。そんな浅井顕正が「インチキ遥拝勤行」を正当化するするために使う文証は、

◆譬えば、天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞こゆ。御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来れり。乃至、御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ(千日尼御前御返事)

なのだが(顕正会活動家もコレを言ってくる)千日尼はこの時に「遥拝勤行」などしていない。なぜなら、

◆あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんばゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり(阿仏房御書)

との文証があるとおり既に阿仏房夫妻は御本尊を頂いていたからだ。この『阿仏房御書』は文永12年の御書であり『千日尼御前御返事』は弘安元年の御書なので千日尼が「遥拝勤行」などしていないのは明らかである。当然、日蓮大聖人が千日尼に「遥拝勤行」を推奨したなどという文証にはならない。浅井も池田同様に自分の都合のいい切文を使うのだが顕正会員は御書を読まないので騙される。また浅井は、

▼遥拝勤行こそ、末法三毒強盛の凡夫を、直接、戒壇の大御本尊に繋ぎまいらせる秘術であり、広布最終段階の信行の姿なのです

などと言っているが千日尼も遥拝勤行をしていたなら大聖人が御在世の時から【広布最終段階】だということになるがこの矛盾はどうしたものか?さすがは【出たとこ勝負の口先案内人】の浅井である。さらに浅井は【遥拝勤行こそ、大聖人様への「忠誠の証」】などと言っているがその論拠はなんのことはない、

▼私は顕正会の安穏よりも大聖人様への忠誠を選んだ。そして遥拝勤行による広宣流布の御奉公を決意した。ゆえに「遥拝勤行」こそ忠誠の証である。

【自分(浅井)が大聖人へ忠誠を誓ったから】らしい(笑)文証も理証もない単なる自分の妄想を言っているだけの与太話に大嗤いだ。これがまかり通るなら自分が大聖人へ忠誠を誓ったなら勤行しなくても「忠誠の証」になるじゃないか。そもそも大聖人に忠誠を誓った人間は大聖人仏法の根幹である血脈相承を否定などしないのである。唯授一人血脈を否定することは即戒壇大御本尊を否定することであり大聖人を否定することである。そんな文証もなければ理証もない浅井顕正の「インチキ遥拝勤行」で功徳が出る。成仏できると思っている顕正会員さんは哀れである。いくら教学がない顕正会でも大聖人仏法とは「受持即観心」だということは知っていると思うが「受持」とは何を「受持」するのか知っているか?法華経の宝塔品には、【若有能持 則持仏身】(若し能く持つこと有らば、則ち仏身を持つなり)と説かれ、『観心本尊抄』には、

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ

との御妙判があり、顕正会員の尊信する日寛上人は、『観心本尊抄文段』で

◇但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり

と御指南されているいるように、「本尊」を「受持」することが受持即観心の法門である。また日寛上人は、

◇たとへ授戒候とも、本尊なくば別して力も有るまじく候(福原式治状)

ともご指南され「御本尊を自宅に御安置」することを強く勧められている。それが大聖人仏法を正式に受持することになる。「戒である御本尊」がなけれな受戒できるわけない。見たこともない戒壇大御本尊の御相貌を勝手に想像して勤行することが本当に正しい修行だと思っているとしたら大間違いだ。もっとも顕正会創価のように「イカサマ本尊」を拝んでいないだけまだ救いは有るが本当に大聖人の仏法を信仰するのであればちゃんと自宅に御本尊をお迎えし戒壇大御本尊にもお目通りするのが正しい姿である。大聖人や法主上人はキミ達、顕正会員を決して見捨ててはいないのだよ。キミ達が本当に大聖人を求めるのであればいつでも勧戒は受けられるし御本尊も下付してくださる。また大石寺戒壇大御本尊様にもお会いできる。「国立戒壇の建立」?いいじゃないか。日蓮正宗の一信徒として法主上人の御指南を受けながら「国立戒壇建立」を御祈念し自行化他に励めばいい話しだう。国立だろうと何だろうと、本門寺の事相の戒壇建立を目指すのは法華講も同じである。「国立」という言葉にとらわれ、浅井に誑かされて「遥拝勤行」などという寂しい勤行をしていないではやく正宗に戻って来なさい。大聖人様もそれを待っています。

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