創価ダメだしブログ

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日有上人(化義抄研鑽を始める前に)

日寛上人の『六巻抄』の研鑽も終わり来年は日有上人の『化義抄』を取り上げたいと思っています。その前に今回は日有上人について書いてみたいと思います。日有上人の伝記に関する資料は少ないのですが、日寛上人とともに【中興の祖】といわれる日有上人の誕生は応永9(1402)年4月16日です。『家中抄』に「俗称は南条」とあるので南条家の御出身で日影上人を師として幼少時に得度され応永26年に若干18歳でご相承を受けられ第9世として法燈を継がれます。文明14年(1482)9月29日に81歳で御遷化されるまで途中第10世日乗上人、第11世日底上人が登座された6年間を除き法主上人として門流を率いました。日有上人は70年余り続いた東坊地問題で手付かずだった大石寺の諸堂宇を復興されたり地方を巡化され末寺の復興にも尽力されたました。(特に東北方面の寺院を中心に復興されました)そして、日興上人・日目上人の100回遠忌の永享4年(1432)3月に上洛され後花園天皇へ奏聞されたことも重要な御事績です。日有上人以降は諌暁が数百年間途絶える時代になります。第五十二世の日霑上人のまで諌暁の記録はありません。日有上人の諌暁とほぼ同時期に「鍋かぶり上人」として有名な日親の諌暁もありました。当時の諌暁は命がけのことです。また当門流に関する多くの書き物を残している左京阿闍梨日教師は日有上人を慕い住本寺(後の要法寺)より日有上人に帰伏した方です。日有上人は晩年、甲斐国杉山(現在の身延町)に法華堂を創り移られましたが、毎月3度の御講日には必ず大石寺へ参詣されたと言われ、その時に歩かれた道は「上人道」と呼ばれ今日まで日有上人の御高徳とともに伝えられています。日有上人の高徳を表わす逸話が『家中抄』に二つ書かれています。ひとつは、ある時に大杉山の近くにある下部の温泉宿を訪れた際に宿主に日有上人が「あなたには子供がたくさんいる。一人私の弟子としよう」と言いましたが宿主は、そこにいる子供たちは自分の子供だったにもかかわらず、「私の子供は一人だけなのです。他の子供たちは私の子ではないのです」と断りました。すると、それより代々その家には子供が一人しか生まれなくなってしまいました。そこで末裔の人が子供が少ないのを嘆いて、総本山第十五世日昌上人にお願いして日有上人のお墓にお詫びに行き、それより子供が多く生まれるようになったという話で、もうひとつは、ある家に行かれたときに笈の中から鍋を取り出して、家中の人たちに飯を振る舞おうと仰せられました。その鍋に水を張って火にかけ袋から米を取り出して鍋に入れられました。 ところがその少なさを見た下女が、「これだけのお米では一人二人分にもなりませんよ。到底、全員分はありません」と笑って言いましたが日有上人は「よいから火を焚け」と言って取り合いませんでした。すると炊きあがっていくにつれてお米の量が増えて最後には鍋から吹き出るほどになったという話でどちらも日有上人の高徳より生まれた伝説です。江戸時代になっても日有上人を慕う人もは多かったようで杉山廟所に参詣する人が列をなしため参詣者達のために大杉山有明寺が建立されたそうです。この時には日寛上人も助力されています。日因上人によると、【かくおくも袖こそぬるれ藻しは草 露にさたまる身のはてなれば】との御辞世の句を東北・岩城妙法寺に遺されているようです。『化義抄』はそんな日有上人の折々の御説法を弟子の南条日住師が書き留めまとめたもので、日有上人が若年である第十二世・日鎮上人に付法するに当たり遺言の意味を込めて残された相伝書です。全121条からなり(ただし最後の2条は日有上人の御言葉ではない)、日興上人の「日興遺誡置文」とともに日蓮正宗の山法・山規の根幹となっているのが『化義抄』です。来年からはこの『化義抄』を研鑽していきたいと思っています。

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