創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

『化義抄』を学ぶ①(1~2条)

今月から『化義抄』を学んでいきたいと思います。『化義抄』は第9世日有上人の御指南を弟子の南条日住師が121箇条にまとめたもので、日興上人の『遺誡置文』と並んで日蓮正宗の僧俗としての化義の基となっている書物です。また本抄の解説として日亨上人の『有師化義抄註解』が富士宗学要集1巻に収録されていますのでお手持ちの方は『註解』も参考にしてください。121箇条もあるので1年では到底終わりそうもありませんが何とか最後まで記事にできたらと思っていますのでお付き合いください。なお記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は『註解』からの引用文といたします。それでは早速始めたいと思います。

【第1条】貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮花経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか、信心の所は無作一仏、即身成仏なるが故に道俗何にも全く不同有るべからず、縦ひ人愚癡にして等閑有りとも我れは其の心中を不便に思ふべきか、之れに於いて在家出家の不同有るべし、等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり、是れ則ち世間仏法の二つなり。

この第1条は創価が冒頭だけ切文して僧俗は平等であると悪用する御文ですので創価イカサマに騙されないように全文を掌握してください。最初に「信心」をしているという点においては誰しもが即身成仏できますから全員が平等であると言われています。しかし1本の竹、即ち信心の人は平等に成仏しますがその中にも上下の節があるように僧と俗では差別があると仰せです。さらに言えば御僧侶の中でも能化と所化、俗の中にも例えば講頭と講員といった差別(位)がありその位を乱さず礼儀をもって接することが重要であると言われているのが冒頭の御文の意味です。

◇前文は平等の義を示し今文は差別の義を示し常同常別・而二不二の通規を汎爾に示し給ふ(化儀抄註解第46条)

との亨師の御指南のようにこの冒頭の部分は而二不二の法義を表している部分です。大聖人は『聖愚問答抄』で、

◆只不二を立てて而二を知らず謂己均仏の大慢を成せり

禅宗を破折しました。まさしく創価の僧俗平等論は、「不二」の部分だけを取り上げ自分達と大聖人は同じ仏であると主張する大慢心の謗法です。本抄の「不二」の部分だけ切文して「僧俗平等」を唱えているのが創価です。さらに創価は正宗を差別主義などの批判していますが本条項を読めば仏法における位は御僧侶が上で信徒は下なのは当然であり御僧侶を自分より上の位と接していくのが僧俗の礼儀なのです。御僧侶の位が上なのは「人間としての差」ではなく「徳分の差」なのです。そのような僧俗の位を乱すのは仏法を乱すことになり、それでは【信心の所は無作一仏】になりません。そもそも【信心の人】とは「戒壇大御本尊を受持する人」であり日興上人以来の「血脈相承を尊信する人」が大聖人仏法における【信心の人】なのです。そういう意味では創価は信心の人達ではないので「不同」なのです。次に【縦ひ人愚癡にして等閑有りとも我れは其の心中を不便に思ふべきか】とは在家信徒がご僧侶に対し無礼慇懃な態度をみせてもそれは信心に無智だからであり不憫に思ってあげなさい。ということです。

◇不便とは可憐又は愍然と通ずる語にして智恵才覚等なくして万事に不便不都合なる愚人を気の毒がり愍れむ意に使用してふびんと訓ませたり、又ふべんと読めば元の不便利不都合の意となるなり(註解46条)

池田創価の連中が無知だろうと邪智だろうと、どちらにしても信心未熟な愚人だから正宗の僧俗に悪態をついているので可哀そうだなと慈悲をもってあげなさいという事です。しかしこの慈悲の垂れ方には出家と在家では違いがあります。【等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり】とあるように出家である御僧侶は創価などの謗法者に対しても許すの対して、在家信徒は謗法者を許せないと責めるのです。謗法者に対してはどちらも折伏ですが、御僧侶方は折伏中の摂受を在家信徒は折伏中の折伏を行じるわけです。ですから我々信徒は創価顕正会の謗法をだた「可哀そうな人だ」と思い放置してはいけません。「可哀そうな人だと破折する」のがこの第1条に即した行体なのです。在家の慈悲心とは謗法を憎む心なのです。

【第2条】人の志を仏け聖人へ取り次ぎ申さん心中大切なり、一紙半銭も百貫千貫も多少ともに志の顕はし物なり、あらはす所の志は全く替るべからず、然る間、同等に多少軽重の志を取り次ぎ申すべし、若し軽重の心中あらば必ず三途に堕在すべし云云。

第2条は御僧侶がご供養を受ける時の心根をご指南されています。即ち一紙半銭の僅かな御供養であっても大金であってもご供養の志は全く変わらないのであるから御供養の多寡に関わらずありのままに御本尊へ披露しなさいという戒めです。日蓮正宗では他宗のような「布施」というものはありません。全て「御供養」です。それは御僧侶が受け取るものではなく全て御本尊・大聖人が受け取るものだからです。御僧侶は御供養を御本仏に取り次ぐ役目であると本条項では定めています。その御供養のなかからご僧侶方は必要な金銭を使うわけです。つまり御僧侶は御本仏から必要な金銭を頂いているわけです。この道理が分かっていないのが池田創価の連中です。

◇又弟子檀那の中にも御本仏に供養すと思はずして・其所縁の僧侶に呈するとの意より所施者の身分の高下及び場合に依り供物を軽忽にして・動もすれば鄭重の式を備へず乞食にでも呉れる様の不敬を為す(註解第60条)

在家の我々は御僧侶や寺院に対して御供養をするのでなく、あくまでも御本仏・日蓮大聖人に対して御供養をするのです。それが分っていないとあたかも自分達が御僧侶を養っている寺院を維持してやっているというような「供養してやった」という感情や発想になります。まさに池田創価の連中が最たるものです。「供養した寺を返せ」などと言う創価民がいますが、その言葉は日蓮大聖人に向かって吐いている言葉なのです。また御僧侶方が使っている金銭は我々から金銭ではなく御本仏から使わせていただいている金銭ですから創価や信徒が御僧侶に向かって「返せ」というのはこれまた大聖人に向かって「金返せ」と言っているのも同じです。

◇能施の人も所施の人も・共に此の取次といふ事を知らざるが故なり、よし多少知る処あるも此を軽忽に附するより起る(註解第60条)

このような恥かしい思い違いをするのは、この第2条の「御供養の取次」という法義を知らないからです。総講頭だった池田大作すらこんな基本も知らなかったのだから創価教学の底は知れているでしょう。こんなことも知らない連中が勝手に化義を決めているのが今の創価です。創価の言うように贅沢三昧しているような僧侶がもしいたのならそれは御本仏からお𠮟りをうけ三途に堕ちますから我々が批判する必要はありません。また御本仏に差し上げた「供養を返せ」などという信徒も三途に堕ちます。因みに創価の財務は大聖人に一銭も取り次がず創価職員がネコババしているということになります。つまり御供養ではなくあくまでも単なる財務ですから功徳はありません。どんなに心を込めて財務をしても大聖人には届きません。顕正会に至っては「広布御供養」などと会員を騙して金銭を騙し取る詐欺行為です。我々法華講員はこの第2条の御供養の根本精神をしっかり胸に入れ純真な志からの御供養を心がけていきたいものですね。

▼「一日イチ押」お願いします。


にほんブログ村


創価学会ランキング