日寛上人の『六巻抄』の学習の連載が終わりました。あらためて『六巻抄』の凄さを感じます。私がこうして戒壇大御本尊の許に戻れたのは創価時代にこの『六巻抄』と出会ったからといっても過言ではありません。もし『六巻抄』に出会い学んでいなければ戒壇大御本尊が何たるかも分からず今頃は創価で戒壇大御本尊を誹謗していたかも知れないと思うとゾッとします。そこで今日は『六巻抄』を書き残された日寛上人について少し書いてみたいと思います。日寛上人は寛文5年(1665)8月7日に上野国前橋に産まれました。姓は伊藤。父は静円、母を妙真といいます上人の幼名は市之進と言いますが9歳の時に母を亡くし養母の妙順に育てられます。15歳の頃に江戸に来ました。9歳で母を亡くしている市之進は母の菩提の為に当時流行していた観音信仰をしていました。19歳の時(天和3年)に霊場巡礼の修行者と問答します。市之進は口に念仏を唱え心に観音を念じ法華経を奉納する修行者に身口意の三業がバラバラではないかと問いますが修行者は返答に窮してその場を去ります。この市之進の疑問を解決したければ下谷の常在寺で説法を聴聞しなさいと智者に言われ市之進は常在寺に参詣し御隠尊日精上人の説法を聴聞し疑問が晴れその年の年末に時の常在寺住持の日永師(後の日永上人)の元で出家し覚真という道号を賜りました。(日精上人は出家の少し前の11月5日に遷化されています)元禄元年(1688)には師の日永師に随従して会津実成寺に転住しますが翌元禄2年春に25歳という高齢で細草檀林に入檀します。細草檀林とは興門派と八品派が中心となって創設した檀林(学問所)です。細草檀林の就学過程は「名目条箇部」「四教儀集解部」「玄義部」「文句部」から成っています。入檀後の覚真は最初の1年間に条箇、その後3年間は集解部。29歳から5年間を玄義部で過ごし元禄11年に文句部に部転し7年間学び45歳で玄義講主(伴頭)47歳で文句講主=能化になり堅樹院日寛と称するようになります。通常は能化になるまで30年はかかると言われていますが22年で能化になったのは才能と努力の賜物といえるでしょう。その後、正徳元年6月に大石寺連蔵坊(学寮)の6代目学頭に任命され大弐阿闍梨日寛と称するようになります。そして享保3年3月に第26世として登座されます。享保5年に日養上人に付属し隠居しますが養師の遷化により享保8年(1723)に再度猊座に登り享保11年5月26日に法を日詳上人に付属されます。8月になり遷化の両日前、「暇乞いに巡るべし」と各方面にカゴで暇乞いされました。更に臨終が近いので葬具をつくらせます。8月18日の夜、大曼荼羅を床の上に掛け香華灯明を供え【末の世に咲くは色香は及ばねど種はむかしに替わらざりけり】との末期の一首を書き終えると侍者にソバを運ばせ七箸食し莞爾と一声笑い「ああ面白や寂光の都は」といい大曼荼羅に向かい合唱・唱題したまま享保11年8月19日午前8時に安祥として円寂しました。御寿62歳でした。この臨終の御姿には所以があって日寛上人が生前の本尊抄講義の終了日に衆に向かい羅什三蔵の遺言になぞられ「予は正に臨終の時にはソバを食し一声大きく笑って題目を唱えて死するであろう。もしその通りになったら私の言ってきたことは全て真実であるから一言一句においても疑義を生じてはいけない」と言われたそのままの御姿だったのです。以上が日寛上人の超略伝ですが、現在の大石寺・石之坊にある常唱堂を建立したのが日寛上人です。現在の姿になったのは日柱上人の時代です。【富士の根に常に唱うる堂建てて雲井に絶えぬ法の声かな】との日寛上人の歌にもあるように日寛上人はその教学が目立ちますが、7年間で2000万遍の題目を唱えるなど唱題のお方でもありました。『六巻抄』や『文段』にみられるあのずば抜けた教学は単に勉強した単に才覚があったのではなくそこに信行が備わっていたからこそ不朽の教学として今もまた未来も多くの僧俗が学び感動するのです。他門・異流義は「日寛教学」などといって日寛上人の法門の御指南を批判しますがその根底は戒壇大御本尊様と日興上人以来の血脈相承への深い信力と強い行力に裏付けられているのです。ですから私達末代の信徒は日寛上人の教学・御指南をただ文上で学ぶだけでは不十分なのです。唱題を申し上げ折伏に苦心する信力・行力を持ってこそ日寛上人の御指南を深くそして正しく拝せるのであり、また日寛上人の御指南を拝したならば更に信力・行力を増していかなければ本当の教学力は身につかないと思います。教学は学問ではなく信心。それが私の信念で、それを教えてくれたのが日寛上人です。
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