創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2021年11月・上野殿御返事)

末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候もわたくしの計にはあらず、釈迦多宝十方の諸仏地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじへばゆゆしきひが事なり、日出でぬればとほしびせんなし雨のふるに露なにのせんかあるべき、嬰児に乳より外のものをやしなうべきか、良薬に又薬を加えぬる事なし。此の女人はなにとなけれども自然に義にあたりてしををせるなり、たうとしたうとし

昨晩、今月の御講御逮夜へ参詣してきました。今月は私の愚息もあまり自主的・積極的ではなかったものの初めて御講に参詣しました。さて今月の御講拝読御書は『上野殿御返事』の御文です。本抄も2Pほどの短い御書ですので全文拝読してみてください。まず最初の【今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし】とは末法では大聖人仏法以外では成仏ができないという趣旨です。【余経も法華経も】とは釈迦仏法の全てを示しています。では何故大聖人仏法以外では成仏できないかというと末法衆生は釈迦仏からの下種を受けていない本未有善の衆生だから釈迦の熟脱の仏法ではなく大聖人の下種仏法でなければならないのです。そしてこのことは大聖人が勝手に言っているのではなく【釈迦多宝十方の諸仏地涌千界の御計なり】と釈迦を含む全ての仏が決めたことなのです。この一文は何を意味するかというと法華経の結要付属を意味しています。即ち釈迦仏から上行へ末法衆生の法体を付属したということです。ですからその法体を相続した上行菩薩日蓮大聖人の仏法以外は利益がないのです。よく大聖人のことを「釈迦を蔑ろにしている」と批判する人がいますが全く逆です。釈迦の言ったとおりの事を言っているのが大聖人ですから釈迦を蔑ろにするどころか尊重しているのです。次に【此の南無妙法蓮華経に余事をまじへばゆゆしきひが事なり】とのご指南がありますがここが当御文のポイントになります。『御講聞書』には

◆今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり

と更に詳しく具体的に書かれています。つまり「南無妙法蓮華経に余事を交えない」とは、【此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉る】ということです。ここには「余事を交えない」ことについて本尊と修行という二つの側面で書かれています。まず本尊については【大曼荼羅】以外の本尊を交えないということであり修行については【本門の題目を唱える】以外の修行をしない。ということです。本文の前段には

◆南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心人の中の神のごとし、此れにものをならぶればきさきのならべて二王をおとことし、乃至きさきの大臣已下になひなひとつぐがごとし、わざはひのみなもとなり

と書かれていています。創価時代に仏壇に池田大作の写真を飾っている学会員を多く見てきました。(私も創価時代にそうしてました)なかには池田の写真を仏壇の上に飾ってある家もありましたね。これは御本尊と池田の写真を「並べている」ことに相当します。御本尊と池田写真に向かって唱題をするのは信が二つになってしまいます。創価本尊は基本的に正しい本尊ではないから何を並べても無関係と言っていまえばそれまですがこのような事を平然としていればやがては本尊と池田との区別がつかなくなりそれは「禍の源」(不幸の原因)となります。また法華講員さんの中にも仏壇に両親やペットの写真を飾っている方もいると思いますが確かに写真は本尊でないし本尊だと思っていないでしょうが厳密にいえば御本尊と別なものを並べていることになりますから仏壇には御本尊以外の写真等を置かないことをおススメします。亡くなった両親やペットへの思いはそれはそれとして仏壇以外の場所に飾るようにした方がいいでしょう。これは本尊の側面です。また修行の側面から言えばこれまた「創価あるある」で、創価民は「池田先生にお応えする」とか「池田先生に誓願する誓願の題目」とかいって唱題します。これは余事を交えた題目です。池田センセの健康を願う位ならともかく池田に応えたり池田に誓願するというのは大間違いです。更に「選挙は信心」というのも南無妙法蓮華経に「余事を交えた僻事」です。このような「僻事」をしていたのでは成仏どころか「禍の源」になるのです。創価や顕正の不幸の源は全て南無妙法蓮華経の本尊と修行に「余事」を交えることにあり、この「余事を交えること」を謗法と呼ぶのです。私達法華講員はこうした「余事」を交えることなく上行即大聖人であられる戒壇大御本尊を唯一無二と一途に信じて、勤行・唱題の自行と折伏の化他行という自行化他の正しい唱題の実践をしていきましょう。そうすれば自然と自身の祈りも叶い成仏できると大聖人は仰せです。因みに法華講員が法主上人猊下誓願を立てることは池田や浅井に誓願を立てるのとは訳が違います。何故なら、法主上人は日興上人に連なる僧宝ですから法主上人に誓願を立てることは三宝一体の義において大聖人・戒壇大御本尊に誓願を立てるのと同じだからです。でもだからと言いて法主上人の写真を仏壇に飾るのはお勧めできませんけど。仏壇には御本尊だけ。御当代猊下も歴代上人も全て御本尊に含まれています。

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