創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日興遺誡置文の研鑽番外編・池田指導を破す③

引き続き『日興遺誡置文』を利用した池田大作のインチキ指導を嗤いながら破折していきたいと思います。(以下黒太字は平成4年の池田指導です)

一、謗法と同座すべからず、與同罪を恐るべき事。

大正十一年十月、日蓮宗(身延派)、顕本法華宗など日蓮宗各派の管長らと同座したうえ、身延の管長の導師で寿量品の読経、唱題をした法主がいた(第五十七世日正法主)。しかも、それは、大聖人に「大師号」を宣下するよう政府に請願し、「立正大師」号を受けたことの記念行事であった。宗祖と正反対の“権力迎合”の姿である。

大師号奉戴式に参加した日正上人を誹謗しているがこの時の写真でを見れば分かるように日正上人は合掌すらしていていない。つまり読経・唱題などしていない。他宗の人間と同座しても仏事(読経等)をしていなけれな謗法与同にならないことは化義抄に書かれている。逆に謗法でない者を謗法呼ばわりする者の方が謗法であるとも化義抄に書いてある。仮にも名誉会長ならもう少し勉強したまえ。また大師号を受けるのが権力迎合の姿なら、「天台大師」や「伝教大師」も権力迎合なのか。そして天台・伝教と大師号を呼ぶ人間(つまり池田を含めた人々)も権力迎合なのか。そもそも日正上人をはじめとする正宗の僧俗は日蓮大聖人の事を「立正大師」などと大師号で呼んだことはない。それより池田自身が無信仰のある意味謗法団体から受けた数々の名誉称号は何なんだ?池田は「これが信心」と言っているがまさに宗祖と正反対の名聞名利の姿であろう。

一、謗法の供養を請くべからざる事。

学会を“謗法よばわり”しながら、平気で学会の供養を受け、学会寄進の寺に住むことは、明らかに矛盾である。要するに、“遺誡よりもお金”が本音なのである。

そもそも「学会の供養」なんてものはない。正しくは「学会員の供養」である。その供養は創価に対してしたものではなく大御本尊に対してした供養である。はき違えないでもらいたい。そして学会から寄進された寺院は池田創価が謗法を犯す前の供養であるから受けてとっても問題ない。逆に日顕上人や正宗が始めから謗法だったとしたら池田は謗法の正宗に供養したのか。それこそ矛盾を通り越して詐欺である。

一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事

社会の荒波に身をさらし、広布開拓の最前線で、大難を受けながら、仏法を守り抜いてきた学会こそ、この御遺誡の心の実践者なのである。反対に宗門は、学会の「仏法守護」「外護の実践」に甘えに甘えて、腐敗した。「仏法守護」の心など、かけらもない。あるのは「保身」だけである。

戦後の順縁広布の時代にポッと出の創価になどに「大難」など降りかったことなどない。創価が出来る以前の宗門の法難を勉強しなさい。自称「大難」なんて鼻糞程度のものであることを知るだろう。そのような先哲の「仏法守護」の戦いがあったからこそ創価民は御本尊を拝めるのである。

一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。

日顕宗は、最低の“金の亡者”になり下がっただけでなく、学会が僧侶を敬い、尊敬してきたのをいいことに、信徒を差別し、見下した。そればかりか、社会的高位のない「民衆の団体」である学会を迫害し、最も尊貴なる「信心の団体」たる学会を破門した。“高位”に媚びず“仏法”を基準に生きよとの御遺誡と正反対の姿である。

まず「金の亡者」云々は根拠のない誹謗中傷である。その無根拠な誹謗中傷から理論を展開するのが池田である。しかもこの条項は創価の最高指導者である池田であろうとうも若輩のご僧侶の上座に居てはならない。という御遺誡なのあでる。高位に媚びず云々などという話ではない。池田君、キミは文章もまともに読めないのか?通釈もできないというのは平成4年当時ですでにボケていたのか?

一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦のヨウ犯有りと雖も衆徒に差置く可き事。

この御遺誡は、大聖人・日興上人が、僧侶の「妻帯」を絶対に許されていない、という明確な文証である。「聖僧」とは、「清僧(清い僧)」とも書き、妻帯・肉食をしない僧をいう。(中略)「一旦のヨウ犯」どころか、妻帯したうえに、破廉恥な行動で宗風を汚し、猊座を穢し続ける法主。日興上人が明確に、そういう人間は「退座」せよ、「降格」せしめよと命ぜられているのである。それに逆らう者は、日興上人への反逆者である。

この条項は創価民がよく使う条項だが、「僧侶の「妻帯」を絶対に許されていない」とはどこにも書いていない。な~にが「明確な文証である」だ。全く不明確じゃないか(笑)。名誉会長でありながら「文証」の意味がまるで分かっていないとは支部長レベルの教学力だ。このように勝手に自分の都合のいいように解釈するのが池田流である。「妻帯を絶対許さない」という【明確な文証】を出してみ給え。何度も書くが、大聖人や日興上人が「妻帯・肉食禁止」などという小乗教の戒律を遺誡するわけないだろう。池田は本当に大聖人の仏法を理解しているのか?そして「破廉恥な行為」ってなんだね?シアトルも芸者者も全部創価のデッチ上げじゃないか。で、自分達の妻帯・肉食を責められると普段は僧も俗も平等とか言っているくせに「自分達は在家だから関係ない」と逃げる。自分達の都合に合わせてある時は僧俗平等である時は僧俗差別する。じつにいい加減なのが池田創価である。

一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫す可き事。

日顕宗は、「折伏の実践者」の尊い仏使の団体たる学会を、見下し、利用し、切り捨てたのである。

折伏とは日蓮正宗の教義を弘めることである。日蓮正宗の教義とは戒壇大御本尊と唯受一人血脈である。唯受一人血脈を否定することは日興上人を否定することだ。つまり日興上人否定の池田ごときが『日興遺誡置文』を使って正宗や日顕上人を誹謗するのは全くナンセンスなのである。

以上のように池田の『日興遺誡置文』をつかった正宗誹謗の指導を破折してみた。池田のこれらの指導にはまさに「池田創価教学」の本質がよく合われている。そのロジックはまずは自分の無根拠な主張(結論)を提示し、それに合わせて御書や御指南を自分勝手に解釈して提示する。あたかも「文証」があるように見えるが実は自分達の主張に御文や御指南を合わせているだけなのである。御文に書いていないことを勝手に解釈して「書いてある」ように見せかるかけるという実に姑息な教学こそ「池田創価教学」の本質である。創価民との対論の場面に遭遇したらこのロジックに惑わされないように注意してください。それにしても池田の遺誡置文の指導が支離滅裂すぎて嗤いました。大勢の会員に対してよくもこんな無知・無教学の指導ができるもだと寒心します。厚顔無恥な人間でないと似非指導者にはなれないと改めて思いますね。そしてこんな池田教学・池田指導を堂々と主張する創価活動民もまた厚顔無恥なんでしょうね。「知らない」っていうのはある意味で強いし幸福なことですね。学会員の強さの源泉は「無知」にあるのだと池田指導を読んで痛感した次第です。

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