創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日興遺誡置文の研鑽⑨

「日興遺誡置文」の研鑽も今回で最後です。早速、いってみたいと思います。

一、若輩爲りと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事。

この条項は僧俗の立てわけについての御遺誡です。どんなに若輩の僧侶であっても高位の在家信徒よりも末座に置いてはならないと僧と俗の立場の違いを明確に言われています。創価は「僧侶は上で信者は下」というのがおかしいと難癖付けてきますがこの僧俗の立場の違いは日興上人の時代つまりは日蓮大聖人がお決めになったことなのです。この条項にはふたつの意味があります。在家信徒の立場でいえば今言ったように所化さんだろうとなんだろうとご僧侶は尊い存在であるという事を肝に命じ接する。ご僧侶方の立場で読めば、自分達は在家信徒から信頼され尊ばれているのだということを自覚することによって自分自身を律していくという事です。これは僧宝としての権威を僧俗共に守っていくという事です。僧宝の権威が失墜すれば大聖人仏法の権威も失墜しひいては大聖人仏法そのものが消滅してしまいます。私達在家信徒がご僧侶を尊敬しその権威を守るのは大聖人の仏法を守るということです。「三宝一体」とは実に故ある事なのです。

一、先師の如く予が化儀も聖僧爲る可し。但し時の貫主或は習學の仁に於ては、設ひ一旦のよう犯有りと雖も、衆徒に差置くべき事。

この条項は創価が宗門批判に好んで使う条項ですが今回は創価のくだらない批判は置いておきます。さて日興上人は先師・大聖人がそうであったように妻帯されることはありませんでしたが、ここでいう「聖僧」とは妻帯の有無を言われているわけではありません。肉食・妻帯などとい小乗戒をではなく大聖人の三大秘法を受持するという「金剛宝器戒」の戒律を持つ僧侶を「聖僧」というのです。その上で日興上人が妻帯しなかったのは当時はまだ世間に「妻帯・肉食=破戒僧」という考えが根強くもし日興上人が妻帯したら広宣流布を妨げることになるかなからです。ですから本条項はその時代を鑑みて広宣流布の妨げになるような言動を慎むということが本条項の趣旨ですが人間ですから時に間違いを犯すこともある。だけどそうした間違い・思い違いをしてもすぐに擯斥しないで置いてあげなさいという日興上人の大慈悲の御遺誡です。法華講の中にもご住職やご僧侶に対して不平不満を感じる人もいるでしょうが本条項の趣旨をよく理解し僧宝の権威を貶めるような言動はせずにおくことが信徒そしての在り方だと思います。

一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫すべき事。

「巧於難問答」とは法華経涌出品の「巧於難問答其心無所畏」の文です。「難問答に巧みにして其の心に畏るる所無く」という地涌の菩薩を称嘆した言葉のひとつです。この「無畏」には四つあってその中のひとつに「説障法無畏」というのがあります。これは邪教・邪師を破折することに畏れる心がないという事です。『御講聞書』で大聖人は、

◆問答対論の時は爾前迹門の釈尊をも用う可からざるなり、此れは臆病にては釈尊を用いまじきかなんど思うべき故なり、釈尊をさえ用う可からず何に況や其の以下の等覚の菩薩をやまして謗法の人人に於ておや、所謂南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経諸宗を対治すべし、巧於難問答其心無所畏とは是なり云云

とご指南されています。大御本尊の仏力・法力は対論の相手が釈尊や仏菩薩であっても畏れる必要はありません。ましてや創価や顕正ごときの邪師・謗法者など取るに足りません。仮に対論折伏で言い返せずともそれは自分の勉強不足であって大聖人仏法が負けるのでありません。ではどうすれば畏れず折伏対論が出来るようになるかといえば根本は戒壇大御本尊に対する強い信心です。具体的言えば唱題です。教学は信心によってのみ理解できるようになるのです。さて「巧於難問答の行者」とは折伏行を行じている人という意味です。本状では折伏行をしている人を尊敬し称賛していきなさい。という御遺誡です。折伏をしている人を自分とは無関係と思うのでなく称賛していく。そこが大切だと思います。

右の條目大略此くの如し、萬年救護の爲に二十六箇條を置く。後代の學侶、敢へて疑惑を生ずる事勿れ。此の内一箇條に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず、仍つて定むる所の條條件の如し。

最後に日興上人は26箇条の御遺誡に疑義を持つことないように念を押され、御遺誡にひとつでも反すれば日興門流ではないと戒めて結ばれています。以上で全9回にわたって研鑽してきた日興遺誡置文は終了ですが「日興遺誡置文・番外編」も予定してますのでそちらのほうも良かったらお読みくださいね。ありがとうございました。

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