創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日蓮大聖人檀那略伝⑧・南条時光(上)

大聖人の御在世の素晴らしい御信徒達は大勢いますが、私の中では筆頭はやはり南条時光です。大石寺の開基檀那だということもありますが、(池田創価大石寺周辺の広大な土地を寄進したと偉そうにしていますけど、元はその土地は全て最初に南条時光が寄進した土地ですから池田創価より時光の方が凄いです)何と言っても大聖人と日興上人という宗開二祖を少年期から生涯変わらずにお慕い申し上げた水の流れるような信仰は派手さはないけど、その芯の力強さに感動します。他の御信徒は日興上人とも所縁の深い佐渡の信徒を除き大聖人御入滅後は日興上人に対し大聖人同様に接する御信徒は少なかったように感じます。地理的な要素や日頃の交流など日興上人とやや距離感が離れていたにしても、根本は日興上人を唯受一人血脈相承のお方だと拝せなかったのその理由だと想像します。しかし時光は日興上人に対しても大聖人同様に尊信し外護され大石寺の礎を築きました。これは地理的に大聖人・日興上人と近かった波木利日円とは真逆で地理的な距離と日興上人に対する尊信の心は無関係であることの証左だと思います。そして時光のこの信仰の姿勢は後代の大石寺信徒の明鏡です。宗祖直結の信心というのは信徒側の我儘でしかなく大聖人仏法から外れた信仰であると、時光と他の御信徒との違いから見て取ることができます。そんな南条時光は正確には南条七郎二郎時光といい、正元元年(1259)に兵衛七郎の次男として誕生しました。父の南条兵衛七郎は鎌倉幕府御家人で最初は伊豆国南条郷の地頭だったと伝えられています。後に駿河国富士郡上方荘上野郷の地頭として移住して下条に居を構えてことから上野殿とも呼ばれました。兵衛七郎は鎌倉の大番役を務める為に鎌倉に滞在しましたが、大聖人が伊豆流罪から鎌倉に戻られた直後の弘長3年(1263)から文永元年(1264)頃、大聖人に帰依したと思われます。その時に父・兵衛七郎と共に当時6歳だった時光も大聖人にお目通りしました。しかし兵衛七郎は入信後間もなく重篤の病に倒れ文永2年(1265)3月8日に臨終を迎えました。訃報を受けた大聖人は御自ら南条家を弔問され墓参されています。時光の母(上野殿後家尼御前・上野尼御前)は松野六郎左衛門の娘で五男四女の子宝に恵まれ夫の死後は尼となり追善供養・法統相続せしめました。時光兄弟の純真な信仰はこの母による所が大きいです。法統相続のキーマンはいつの時代でも母親だと痛感します。その後、文永11年(1274)5月、大聖人は身延に入山しその報は南条家にも届きます。時光は16歳になっていて家督を継ぐまでに成長していました。文永11年7月にはいち早く後家尼御前そして時光がそれぞれ大聖人に種々の品々を御供養しています。『上野殿御返事』に【かまくらにてかりそめの御事とこそおもいまいらせ候いしに、おもいわすれさせ給わざりけること、申すばかりなし。こうえのどのだにもおわせしかばつねに申しうけたまわりなんと、なげきおもい候いつるに、おんかたみに御みをわかくしてとどめおかれけるか。すがたのたがわせ給わぬに、御心さえにられけること、いうばかりなし。(中略)あわれ、人はよき子はもつべかりけるものかなと、なみだかきあえずこそ候え】とあるように兵衛七郎の死で途絶えてしまったかに思われた法縁が10年の時を経て大聖人の身延御入山で再び蘇ったこと、そしてこの10年間南条家の人たちが退転することなく過ごし時光も立派に成長されたことを大聖人は非常に喜ばれています。翌文永12年正月、大聖人の命により日興上人が兵衛七郎の墓参に下向され、この時に日興上人と時光の法縁が結ばれ、以後南条家は日興上人の駿河弘教の重要拠点になりました。同年秋には日興上人の推挙により時光へ大聖人から曼荼羅御本尊が授与されました。しかし「行解既に勤めぬれば、三障四魔、紛然として競い起こる」の文の通りこの後に日興上人の勇猛果敢な折伏により南条時光の住む富士地方において三障四魔の働きが次第に強くなりやがて熱原法難へと向かっていきます。

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