浅井昭衛死去の話題もその後の池田大作の死去ですっかり霞んでしまった感があるが、一部の顕正会員は元気で昭衛の死後から差出人不明の顕正新聞がご丁寧に届けられている。こんなことをして何がしたいのか理解に苦しむのだが無料で顕正会資料が手に入るし、相変わらず「交通事故の保険金で住宅ローンを返済した」とかすぐにバレる幼稚なウソ体験談で笑わせてもらっているのでくだらない4コマ漫画だと思えば悪い気はしない。貰ってばかりでは申し訳ないのでたまには顕正会の事も書いてあげよう。今回届いた顕正新聞(1月分2部)によると1月は顕正会の教学試験があったようで問題と解答が掲載されていた。レベル的には創価と似たり寄ったりだけど回答欄に『国立戒壇』という文字が多くて一体何を勉強をしているのかと思ったらどうやら昭衛の『基礎教学書』がテキストになっているらしい。顕正会は昔から御書も日寛上人の御指南もその他全て昭衛フィルターを通して学習するから日蓮大聖人の仏法とは似ても似つかない教学になってしまうよな。というか最早「浅井昭衛の教え」を学習しているだけで仏法でも何でもない気がする。それは池田創価教学も同じだが最近の創価教学は完全にトチ狂っているのでまだ顕正会教学の方が救いようがあるかもしれないと感じた。今回届いた顕正新聞では池田創価教学の最新版の『創価学会教学要綱』を取り上げ、新会長の浅井城衛が破折している。というかバカにして嗤っているといったニュアンスだ。元創価広宣部としては、「顕正会ごときにバカにされてるんじゃないよ!」と言ってやりたいが、対論シミュレーションをしてみると現在の創価教学では学会員が顕正会員に対論で勝利する道筋は全く見えず顕正会に完敗となってしまう。まぁ創価と顕正会の対論は法門法義など全くなく互いに池田・浅井の悪口を言い合って終わるというのが一番現実的なシミュレーションなのだが(笑)そんな顕正会の教学について顕正新聞に(以下太字は顕正新聞より引用)「顕正会の教学の目的はただひとつ。大聖人様を恋慕渇仰する信心を深めるためである」との昭衛の指導が書いてあった。「おお!昭衛もなかなかいい指導するじゃないか」と感心したのも束の間で、次下の「大聖人様を恋しく思うならば、富士大石寺にまします戒壇の大御本尊様を遥拝し奉れ」という指導を読んで「やっぱりコイツはインチキおじさんだわ」となった。昭衛の指導によれば、恋慕渇仰の信心とは【大石寺の戒壇大御本尊】に対し奉り、「お慕わしい」「有難い」という気持ちを持つことらしいが、その渇仰恋慕の信心が「遥拝」ってどう考えてもオカシイだろ。「お慕わしい」「有難い」という心意は戒壇大御本尊にお目通りすることや自宅に御本尊を安置しお給仕する身意に繋がらなければ「身口意」は不相応になるハンパ信心だ。故にインチキ遥拝勤行は大石寺の戒壇大御本尊を本当に身口意で恋慕渇仰している信仰者の姿ではない。しかも恋慕渇仰している戒壇大御本尊のまします大石寺を「魔の山」等と言って誹謗しているのだから「アタオカ」だ。そもそも今の顕正会員のほとんどが戒壇大御本尊にお目通りしたことないのだから、どうやって「眼前に大御本尊を思い浮かべる」ことが出来るのだ。大御本尊を妄想しろってことか(笑)とはいえ私も創価時代には戒壇大御本尊にお目通りしたい一心で創価幹部の「宗門から戒壇大御本尊を学会に取り戻す」などいう荒唐無稽な言葉を信じて見たこともない大御本尊を想像しながら唱題していたから顕正会員達の気持ちは分からないでもない。昭衛も以前、「いま顕正会も、御遺命守護の御奉公のゆえに登山を妨害されてすでに歳久しい。しかしこの重大な御奉公を命かけて成し遂げたとき、必ず大聖人様の御意に叶って登山が叶うことを、私は確信しております。その時こそ、全顕正会員ともに手を携え、晴れて、涙の中に、戒壇の大御本尊様にお目通りをさせて頂こうではありませんか」(平成3年6月26日総幹部会)なんて言ってたから顕正会員はいつか大御本尊にお目通りができるかも知れないと創価時代の私同様に淡い期待を抱いているかも知れないけど、これって創価幹部が「大御本尊を取り戻す」と言っていたのと同じで顕正会が宗門に復帰することなど絶対に有り得ないことなんだよね。絶対に有り得ない事だからこそこのような嘘を平気で言えるわけだ。それとこれは実体験から教えるけど、本当の恋慕渇仰の信心は戒壇大御本尊にお目通りしなければ起こらないんだよ。私もお目通りする前までは大御本尊を恋慕渇仰していたという自負があったけど、実際にお目通りした後はその思いの深さ大きさはお目通りする以前と比べるとレベチなんだよ。例えば君に大好きな人がいるとする。付き合う前には当然恋慕の想いは有るけど実際に付き合ったらその恋慕の想いは更に深く大きくなるだろ。同じ恋慕の想いでも付き合う前の相手は他人で相手を喜ばせたり護ったり約束したりすることは空想・妄想の中でしかできない。いわば「理」だ。でも本当に恋人同士や夫婦になったら、現実に相手を喜ばせ護り約束することができる「事」の世界。この理と事の違いは天地ほどの差なんだわ。つまり顕正会の恋慕渇仰の想いは「恋に恋している」だけで本当に相手(大御本尊)に恋しているわけじゃない。だから顕正会の教学や活動なんて全て妄想・理の世界。「理」の信心なのだから事実上の成仏はない。昭衛そして城衛は「大御本尊を恋慕渇仰せよ」と口では指導しながら大御本尊とお目通りしたことのない多くの顕正会員から大御本尊への本当の恋慕渇仰の心を奪って会員を浅井一族のために利用しているだけ。もういい加減、気付こうよ。顕正会員は創価員みたいに戒壇大御本尊を放棄していなんだから謗法の浅井一族に騙されて御本尊も御安置できず大御本尊にもお目通りも御奉公もできず徒に悪業を積むことはないだろう。顕正会を退会し勧戒・御受戒を受ければ本当に意味での恋慕渇仰の信心がすぐにできるのだからさっさと顕正会に見切りをつけた方がいいよ。人間に生まれるの稀で戒壇大御本尊に出会えるのは人間の中でも爪上の土だろ。そのチャンスがありながらみすみす逃してどうすんのさ。顕正会のまま今世が終わったら堕在無間で次回のチャンスは数億年先だぞ。浅井一族の維持繁栄より自分の成仏の方が大事だろ。何よりも戒壇大御本尊様にお会いしたいだろう?そう思わないなら君には恋慕渇仰の心はない。つまり顕正会の教学は屁の役にも立っていないということだ。
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