創価ダメだしブログ

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日蓮大聖人檀那略伝⑦・大田乗明

大田乗明(大田五郎左衛門尉乗明)は、三善康連の次男として日蓮大聖人と同じ年の貞応元年(1222)に生まれました。祖父は三善康信源頼朝に仕え初代問注所の執筆(現在だと裁判所長官)に任命された人で、父・康連そして乗明も問注所の役人で、大田家は常陸福島県)・越中富山県)に所領を持つ相当裕福な家庭だったと思われます。康連が備後国広島県)大田荘の地頭だったことから大田姓を名乗るようになったとされ、乗明は下総(千葉県)中山に住んでいました。乗明の入信は大聖人が松葉ケ谷の法難で一時鎌倉を離れて下総若宮の富木常忍の許へ身を寄せていたころと思われます。若宮と中山は地理的にも近く、一説には常忍夫人の富木尼御前は乗明の姉ともいわれていて、そのような縁故によって乗明は大聖人の御尊容に触れられたと思われます。大田家は代々真言宗で乗明も真言宗の強信者でしたが、【貴辺は、日来はこれらの法門に迷い給いしかども、日蓮が法門を聞いて、賢者なれば本執をたちまちに翻し給いて、法華経を持ち給うのみならず、結句は身命よりもこの経を大事と思しめすこと、不思議が中の不思議なり。(太田左衛門尉御返事)】と御書に書かれているように、折伏され真言を棄て大聖人に帰依し、それ以降は佐渡や身延に毎年御供養を欠かさず大聖人を外護する純真な信心を生涯貫いており、建治3年(1277)には大聖人より『聖人』号を賜っています。御在世の信徒で『聖人号』を賜ったのは、この大田乗明と日妙聖人の二人だけです。また弘安元年頃に入道し『妙日』の名を賜り自宅を本妙寺にしています。この本妙寺と富木日常(常忍)の法華寺を合併したのが現在の中山法華経寺です。更に乗明夫人も大聖人に帰依し『妙蓮』の名を賜っており、子息の日高は建治元年(1275)に出家し大聖人の弟子となった後に、富木日常の跡を継いで中山法華経寺の第二代になっています。乗明の人生で一番大きい出来事は建治元年の病気です。何の病気かは不明ですが、その際に大聖人は『大田入道殿御返事』(業病能治事)を認められ乗明に、「乗明の病気の原因が謗法によるものであったとしても、妙法を持っているので病気を治すことができて長寿を招くことは疑いない」と御指南され、病気の平癒を強く祈るように信心を励まされています。その御指南に素直に従い更なる信心精進をした結果、乗明の病気は平癒します。このように乗明は大聖人の御指南に素直に信伏随順した信徒です。池田創価や浅井顕正が異流義となり謗法者となる一番の理由は大聖人からの血脈付法の法主上人に信伏随順できずに己義を構えるからなのです。その根本は驕慢です。その驕慢の人師に従う者は浅識・計我・不解で全て十四誹謗に当たります。我々後代の信徒はこの乗明の信心を模範として日興上人以来の御歴代の法主上人の御指南に信伏随順していくことが肝要でそれが大聖人の信徒としての正しい信心の姿なのです。そうした正しく純真な信心を貫いた乗明に大聖人は御入滅の直前に認められた重要御書である『三大秘法禀承事』を送られました。【三大秘法】は素直で純真な信心がなければ理解できないことは昨今の創価顕正会員達を見れば明らかであり、彼等のような謗法の者に三大秘法を語る資格はありません。乗明は大聖人の御葬送の折には先頭に鐘を持って参列したと記録されています。そして大聖人御入滅の翌年の弘安6年(1283)9月26日に乗明は大聖人の後を追うかの如く62歳の生涯を閉じています。

 

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