創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日蓮大聖人檀那略伝④・池上兄弟

今回は池上左衛門太夫康光の子息で、兄・右衛門太夫宗仲、弟・兵衛志宗長の池上兄弟の話です。池上家の由来は記録によると摂政・藤原忠平の三男・忠方が平将門の乱平定の為に京より下向し武蔵国千束池の上に住したことから池上の名を氏にしたことに始まるとされてますので、池上家は藤原一族で鎌倉時代の当時は相当の家柄であったと思われます。宗仲が叔父の日昭から折伏を受け大聖人に帰依したのは立宗宣言から3年後の康元元年(1256)で、その後に宗長も兄の折伏により大聖人に帰依しています。二人の父である康光は極楽寺良観の熱心な信徒だったので兄弟の入信には当初から反対したと思われまずが兄弟は大聖人への信仰をやめることなく却って父を破折するようになっていきます。そして兄弟の入信20年後の建治元年(1275)についに宗仲が康光より勘当されます。当時の勘当は社会的地位ばかりか経済的基盤奪われるという非常に厳しいもので宗仲は苦境に立たされます。この報告を聞いた大聖人は『兄弟抄』を認められ兄弟とその夫人に送り信心を励まされます。大聖人は剛直一途な兄・宗仲と違い情に脆く信心が動揺しがちな弟・宗長を心配されているの事は、この後の御指南のお手紙もほとんどが宗長に与えられていることからも知ることが出来ます。さて大聖人からの激励と御指南をいただいた池上兄弟と夫人たちは異体同心して父・康光を諫め翌建治2年(1257)7月に宗仲の勘当は解かれます。その後しばらくは池上家では小康状態は続きましたが、勘当を経た宗仲の信心は益々強盛になり宗長も兄に続きました。そして建治3年(1277)11月に宗仲は再び勘当されることになりますが、この時は兄・宗仲を勘当する一方で弟・宗長に家督を譲ると誘惑・懐柔を図り宗長を退転させるように仕向けてきました。この時に大聖人が宗長に対して与えられたのが『兵衛志殿御返事』で、◆良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしにと今回の勘当は極楽寺良観等の謀略であることを見抜き、更には宗長に対して◆今度はとのは一定をち給いぬとをぼうるなりをち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれしり候まじきなり千年のかるかやも一時にはひとなる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり(中略)法華経のかたきになる親に随いて一乗の行者なる兄をすてば親の孝養となりなんや(中略)ましてわどのばらがわづかの事をへつらひて心うすくて悪道に堕ちて日蓮をうらみさせ給うな、かへすがへす今度とのは堕べしとをぼうるなり。等の厳しい御指導をされています。この書を読んだ宗長は自身の信心を自省するとともに大聖人の叱咤の中の御慈悲を感じとり決然として父を諫めました。さすがの康光も息子二人を失う(捨てる)ことは出来ず弘安元年(1278)春に再度宗仲の勘当を解くことになりました。これは三障四魔を打ち破った宗長の信心の功績といえます。そして宗仲の勘当が解かれた後ほどなくして、二十年来兄弟の信心に反対していた父・康光を大聖人に帰依せしめたのです。おそらく康光は息子たちの姿を通し20年余り大聖人の人格・威徳を見ていた上での入信だったと思います。こうして康光は翌・弘安二年に大聖人の信徒として逝去しました。池上兄弟は最高の親孝行を果たしたのです。私も今年2月に母を亡くしましたが、母を折伏し(しかも自分はまだ創価員だった時に)、日蓮正宗の葬儀で母を見送れたことだけが唯一の親孝行だと思っています。康光亡き後は宗仲が家督を継ぎ兄弟で作事奉行の任を務めていましたが弘安4年(1251)には讒奏で八幡宮造営工事から外される出来事もありましたが、この時も大聖人より御指南・御教示を兄弟は守っています。弘安5年(1252)9月18日に身延より大聖人が池上家へ立ち寄られ、これより約1か月間池上邸に滞在された大聖人は10月13日に滅不滅の相を現ぜられ御入滅されました。翌14日に執り行われた御葬儀には、兄・宗仲は四条金吾とともに幡を持ち、弟・宗長は御太刀を持って葬送に加わっています。その後の兄弟に消息は定かではありませんが、宗仲は永仁元年(1293)、宗長は弘安6年(1283)にその生涯を閉じたと伝えられています。

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