創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日興上人。

今日は日興上人の祥月命日です。私の所属寺院はコロナの関係で興師会が中止になったので、今年は初めて自宅の仏壇に芹をお供えしました。我家の仏壇は小さいので芹をお供えしたら他の供物は全部下げることに・・・でも日興上人の大好物ですからお供えしました。そんなわけで今日は日興上人の事を少し書きたいと思います。創価では日興上人の御生涯を学ばないので学会員さんもぜひ読んでくださいね。

日興上人は寛元4年(1246年)3月8日に甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢山梨県巨摩郡鰍沢町)に生まれ4~5歳の頃父が亡くなり母が再婚した為に富士河合の油比家に引き取られました。日興上人の交名の伯耆公についてはいつ頃からそう呼ばれていたのか定かではありません。また幼名についても不明です。7歳で四十九院に登り初等教育を受け須津で漢籍などを修学した後に仏法一般修学の為に実相寺に登りました。この実相寺で正嘉2年(1258)に「立正安国論」執筆の為に入蔵された日蓮大聖人と出会い入門を許されました。その後大聖人が弘長元年(1261)に伊豆流罪になるとその報を聞いた日興上人は自ら伊豆の大聖人の許を訪ねその日から日興上人の大聖人への随従給仕が始まりました。そして伊豆流罪赦免になると大聖人と共に鎌倉へ赴きます。しかし今度は文永8年(1271)に大聖人が佐渡流罪になりそこに日興上人も随従します。大聖人と共に佐渡に渡った弟子について詳細は分かりませんが、『御伝土台』に、【文永八年かのとひつじ九月十二日大聖人御勘気の時佐渡の嶋へ御供あり御年二十六歳なり、御名ハ伯耆房、配所四ヶ年(※足掛け)給仕あつて同十一年きのへいぬ二月十四日赦免有ツて三月十六日鎌倉え聖人御供して入リ給フ】とあることから日興上人が大聖人に随行して佐渡で過ごしたことは間違いありません。佐渡流罪赦免後は一度鎌倉に戻りますが文永11年(1274)には今度は大聖人と共に身延へと移ります。その年に日目上人が入門します。(日目上人はが身延に入山したのは入門から2年後です)身延に移った日興上人は伊豆や佐渡でもそうだったように大聖人への給仕の合間をみては周辺の弘教に勤しみます。身延での甲斐弘教は、その後、四十九院の法難から熱原の法難へと続き大聖人の出世の本懐である本門戒壇大御本尊建立への契機となります。

富士門流の法難①(熱原法難)

そして戒壇大御本尊建立以降、大聖人から日興上人への血脈相承が本格的に始まります。弘安2年に『三大秘法口決』、弘安3年に『法華本門宗血脈相承(百六箇抄)』の相伝を受け、弘安5年(1282)9月には戒壇大御本尊の譲り状である『一期弘法付属書』を下賜され、続けて『産湯相承事』『教化弘教七箇之口決大事』『御本尊七箇之相承』更に大聖人ご入滅の二日前に『法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)』を大聖人から授与されました。さて、大聖人は弘安5年9月8日に湯治の為に身延を下山しました。途中の池上宗仲邸でしばらく静養されます。この地において大聖人は日興上人に身延久遠寺別当職を付属されます。これが『身延山付属書』です。こうして日興上人に一切の付属をされ大聖人は弘安5年10月13日にご入滅されます。日興上人が大聖人の御灰骨を奉持し身延に帰山したのは10月25日の事です。ここから身延離山までは日興上人の御生涯で最も苦難の時であると思います。日興上人の身延離山までの経緯についてはまた別の機会に記事にしたいと思いますが、身延離山の元凶となった日向が身延に登って来たのは大聖人ご入滅から3年も過ぎた弘安8年です。その日向に唆された波木利日円が謗法を犯し日興上人は正応2年(1289)春に身延を離山します。身延離山後、日興上人は南条時光からの供養により「大石が原」に現在の大石寺を建立します。大石寺は正応3年(1290)10月に落成します。これを機に日興上人は日目上人へ血脈を内付され正応3年10月13日、大聖人の御命日に「譲座御本尊」を授与されました。その後、日興上人は永仁6年(1298)に重須へ移られ談所を開設します。有名な日尊師の破門はこの重須の談所での出来事です。身延離山後もこの談所で日興上人は後継の富士門流の弟子たちの教化し、五老僧の謗法を破折し富士の清流の源を築きました。また最勝の地である富士大石が原に本門戒壇大御本尊様を御安置し末法万年の広宣流布の基盤を作りました。こうして日興上人は正慶2年(1333)2月7日の夜半に臨終の御説法をされつつ、

【ついに我れ 住むべき野辺の かた見れば かねて露(つゆ)けき 草枕かな】

【よろづをば すてて入るにも 山の端(は)に 月と花との のこりけるかな】

という2首を一対とした辞世の句を残され86年(数え88歳)の尊いその生涯を閉じられました。

以上、簡単ですが日興上人の御生涯を書いてみました。大聖人御在世は常随給仕と折伏弘教に明け暮れていたその日興上人の半生をみると私も日興門流として、日々の勤行唱題とお給仕だけではなく折伏弘教をしていかなければと改めて思います。日興上人の御生涯のお振舞を明鏡として精進していきたいと思います。御報恩謝徳御供養の御為に。合掌。

 

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