創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日蓮大聖人檀那略伝⑤・阿仏房と千日尼

佐渡で一番最初に大聖人の信徒になった阿仏房の出自については諸説ありますが、現在の所は佐渡土着の武士であるとされています。妻の千日尼と共に佐渡流罪中の大聖人を外護し大聖人が身延に入られてから阿仏房は高齢の身で3度身延の大聖人の許を訪ねています。また千日尼の「千日」とは大聖人から頂いた法号とも言われ大聖人の佐渡在留期間が約1000日間だったことから「千日」の法号となったいう説もあります。さて大聖人が流罪の地である塚原三昧堂に入られたのは文永8年(1271)11月1日です。佐渡の念仏信者だった阿仏房は噂の極悪僧侶・日蓮(大聖人)を殺害せんと塚原にいきますが大聖人の御尊容と御法門に接しその場で念仏を捨て大聖人に帰依し更には帰宅後に妻の千日尼と子息・藤九郎守綱を折伏しました。この時、阿仏房は83歳。この年齢でいままで長年信じていた念仏を捨て正法に帰依するという潔さに惚れ惚れします。また夫の決断を信じて行動を共にする千日尼も素敵です。大作・香峯子夫妻とは大違いです。さて大聖人の信徒となった阿仏房一家は以来自らの命の危険も顧みず食料等を大聖人の許へ届け外護します。まもなく国府入道夫妻も入信し佐渡の地にも篤信の信者が増えていきそれに伴って◆或は所ををい、或はくわれうをひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給いぬ(千日尼御前御返事)と信者への迫害も強まっていきましたがそうした法難の中でも阿仏房夫妻は変わらぬ信心を貫いていきました。文永9年(1272)1月16日には佐渡及び周辺の諸宗の僧侶100名と大聖人の法論対決である【塚原問答】が行われましたが利剣をもってうりをきり大風の草をなびかすがごとし(種々御振舞御書)が如く大聖人は諸宗の邪義をことごとく破折し、破折された諸宗の者達はあるいは悪口し、あるいは口を閉じ、あるいは色を失い、あるいは「念仏ひが事なりけり」と云うものもあり。あるいは当座に袈裟・平念珠をすてて、念仏申すまじきよし、誓状を立つる者もあり。(種々御振舞御書)というような状況でした。この問答を見ていた阿仏房はますます大聖人に対する信心の確信を強めていったと思います。その年の夏に大聖人は塚原三昧堂から一谷に移され待遇はかなり改善されましたが、阿仏房は変わらず食べ物や紙・硯・墨などを大聖人の許へ届けました。そして文永11年(1274)3月8日についに幕府より赦免状が佐渡に届き大聖人は3月14日に鎌倉に戻るべく佐渡を出立しました。阿仏房・千日尼も門下として喜ぶ半面で大聖人との別れには大いなる悲しみもあったことと思います。鎌倉に戻られた大聖人は幕府からの寺院寄進を断り同年(1274)5月17日に身延に入山しますがその直後の6月に阿仏房は国府入道と是日尼と言われる信者の夫(詳細は不明)と共に御供養の品々を携えて身延の大聖人の許を訪れました。身延入山から間もなく庵室が出来たかどうかという時期ですから阿仏房達は心から大聖人にお給仕されたことでしょう。それから1年もたたない文永12年3月にも3人で身延へ参詣し、3度目の参詣は弘安元年(1278)でこの時には阿仏房は齢90歳に達していました。3度目の参詣の折には留守を守る千日尼に大聖人は◆人は見る眼前には心ざし有りとも、さしはなれぬれば心はわすれずともさてこそ候に、去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間この山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく、大海よりもふかき御心ざしぞかし。(千日尼御前御返事)との書状を認められ佐渡以来の変らぬ信心と5年に3度も高齢の夫を佐渡から身延に遣わせた千日尼の深い志を讃えています。この阿仏房・千日尼の参詣の志はいまでも全法華講員の模範として大石寺登山に受け継がれています。「以前何度も大石寺には行ったのでもう行かなくてもいい」という年配の学会員がいますが大石寺登山の意義をまったく知らない愚か者です。阿仏房の爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいでしょう。こうして阿仏房は弘安2年(1279)3月21日に天寿を全うしてその尊き生涯を終えます。大聖人と出会ってわずか7年弱でしたが今生の最晩年に幸福で濃密な時間を過ごしたと思います。こうした行体堅固の阿仏房の信心はしっかりと法統相続され子息・藤九郎守綱は父の遺言に従い身延に参詣し阿仏房の遺骨を大聖人の近くに葬りました。その後も守綱は佐渡・北陸の弘教に邁進し入道は「後阿仏房」と称され自宅を寺院にし大聖人御入滅後も法脈に迷うことなく第二祖・日興上人にお仕え申し上げています。また阿仏房の曾孫の如寂日満師は若年の頃より大石寺で修行し後に北陸七か国の大別当を命ぜられています。この様に上古の佐渡は一円富士門流一色でしたが、日満師亡き後、後身延派により佐渡の地を謗法で荒らされ現在に至っているのはなんとも口惜しい限りです。また千日尼は阿仏房の入寂から23年後の乾元元年(1302)8月14日に他界しています。私はまだ佐渡に行ったことはないのですがいつかは佐渡に行き大聖人の足跡と阿仏房所縁の地を訪ねてみたいと思ってます。

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