創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日蓮大聖人檀那略伝③・日妙聖人

日蓮大聖人には女性信徒も大勢いましたが中でも個人的に一番なのが、乙御前の母の日妙聖人です。幼い乙御前をつれて佐渡の大聖人の許を訪ねるその純真さと強さは間違いなく私の中では「お嫁さんにしたい御信徒NO.1」です(笑)。そんな日妙聖人の氏素性はハッキリしていません。鎌倉の信徒で夫と離婚か死別をして寡婦だったこと。幼い子供を連れて佐渡まで行ったからその頃の年齢は多分20代前半。また幼女が「乙御前」と呼ばれていたので夫は武士階級(御前は階級の高い女性の名前に付ける尊称)であったと思われます。そんな日妙聖人が大聖人を訪ねて乙御前と佐渡に行ったのは大聖人の竜の口の法難と佐渡流罪により鎌倉信徒の1000人中999人が退転したと大聖人が言われ大聖人の教団が壊滅状態に近かった文永9年(1272)のことです。当時の世相は◆相州鎌倉より北国佐渡の国・其の中間・一千余里に及べり、山海はるかに・へだて山は峨峨・海は濤濤・風雨・時にしたがふ事なし、山賊・海賊・充満せり、宿宿とまり・とまり・民の心・虎のごとし・犬のごとし、現身に三悪道の苦をふるか、其の上当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず、而れども一の幼子あり・あづくべき父も・たのもしからず・離別すでに久し。(日妙聖人御書)と御書に書かているように非常に物騒な世の中で日妙聖人と乙御前の道中も山賊・海賊が充満し宿場もままならい旅でした。そのように命を落とす危険もある中で頼れる男性もなく幼子を連れてたった二人で大聖人に会いに行く。不安で恐ろしいこともたくさんあったことでしょう。そして諸天に守られ佐渡の大聖人にお会いできた時には安堵と歓喜で涙したこと思います。そんな日妙聖人を優しく慈しむ大聖人の姿。その傍らで無邪気に微笑む乙御前。そんなワンシーンを妄想してはもらい泣きするわけです。決して裕福だったわけではない日妙聖人は帰りの路銀が尽きてしまい大聖人が一谷入道に費用を用立ててもらい無事に鎌倉まで帰ることができました。鎌倉での日妙聖人の事跡の詳細も不明ですが◆御房たちをも・ふびんにあたらせ給うとうけ給わる・申すばかりなし(乙御前母御書)とあるように鎌倉の大聖人門下を何らかの形でサポートしていて大聖人の耳にもそのことは聞こえていたようです。鎌倉に戻った日妙聖人に大聖人が与えられた『日妙聖人御書』に◆当に知るべし須弥山をいただきて大海をわたる人をば見るとも此の女人をば見るべからず、砂をむして飯となす人をば見るとも此の女人をば見るべからず、当に知るべし釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行・無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈・四王等・此女人をば影の身に・そうがごとく・まほり給うらん、日本第一の法華経の行者の女人なり、故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらへん・日妙聖人等云云。とありこの時に大聖人から【日妙聖人】という名前をいただきました。「聖人」とは仏の別号で「聖人」号を大聖人から頂いたのは大田乗明と日妙聖人の二人だけですが、日妙聖人は「聖人」号だけでなく「日」号も授かっておりW受賞は異例中の異例です。在家で裕福ではないただのシングルマザーに【日妙聖人】という名前を大聖人が与えられた。これだけで日妙聖人の信心がどれほど凄かったのか想像に難くありません。また大聖人が身延に入山された後も、やはり大聖人を慕って乙御前と共に身延に参詣しています。そして大聖人から◆いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし見奉らん・山中にて共にうえ死にし候はん(乙御前御消息)「何かあったらいつでも身延に来なさい。食べ物がなくなったら貴女と共に餓死しましょう。一緒に即身成仏の題目をあげましょう。」という大慈悲あふれるお言葉をもらっています。その後の日妙聖人親子の消息は不明ですが、大聖人御入滅後においても法脈に迷うことなく第二祖・日興上人を慕い乙御前と共に重須に移り住んでいます。やっぱり「お嫁さんにしたい御信徒NO.1」ですが、私の信心では日妙聖人にお断りされるだろうなと思います。(笑)

 

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