創価ダメだしブログ

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日蓮大聖人檀那略伝⑥・富木常忍

富木常忍と聞くと真面目で几帳面なお堅いエリートで資産家のオジサンというのが私のイメージで、こんな人が父親だったら躾が厳しくて私が子供だったら耐えられないかも?なんて妄想したりしますが、富木五郎胤継は若宮(現・千葉県市川市)の領主で大聖人外護に全うした信徒です。後に入道し常忍と称し大聖人より日常の法号を賜っています。大聖人の御書では、「富木」の他に「土木」や「富城」と書かれているものもありますが富木家の出身は因幡国法美郡富城郷(現在の鳥取県岩美郡)だと言われているので「富城」が正しいと思われます。また「胤継」という名称は上古の記録にないので「胤継」は本名ではないという説もあります。生年については明確ではありませんが伝えられる没年から逆算すると建保4年(1216)に若宮で出生したと思われます。最初の妻は大田乗明の姉といわれ後に六老僧の日頂師の母・妙常を娶り、伊予房日頂(連れ子)・寂仙房日澄(初代重須学頭)・乙御前(日妙聖人の子とは別人)の子があります。入信時期は建長5年12月に大聖人より御書を賜っていることから建長5年の12月以前であり大聖人が鎌倉に登られた年に入信したと思われます。『松葉ケ谷法難』の際に鎌倉から逃れられた大聖人に富木殿は自宅近くに堂宇を建て大聖人に寄進しその御尊体を護りました。この時の大聖人の折伏で、曾谷教信・大田乗明・秋元太郎等が入信しています。文永6年(1269)5月9日には四条金吾・大田乗明とともに問注所に召喚されています。富木殿といえば『観心本尊抄』を始めとする数多の御書を大聖人から賜っていることで有名ですが、その理由は富木殿の強盛な信仰心もさることながら文書格護の条件が備わった大檀越であったことが大きかったでしょう。事実、先の「観心本尊抄」などの重書が現在でも中山に保存されています。また富木殿は法門の理解も他の信徒より優れていて文永7年(1270)には、天台宗の真間山弘法寺住職・了性との対論に勝利に弘法寺を管理下に置きました。しかし文底下種・本因妙の法門まで領解が達することがなく、「観心本尊抄」を賜っても大聖人が外用上行(内証御本仏)であることが理解できず、曼荼羅御本尊の意味も理解できませんでした。この理解の浅さは戒壇大御本尊建立の契機となった『熱原法難』に顕著で、南条時光四条金吾などが身を挺して熱原郷の信徒を護ったのとは対照的に富木殿は『熱原法難』に対する関心は薄かったようで、『竜泉寺申状』に対する扱いにもそれが顕れています。日亨上人も富木殿が『熱原法難』を重大事に扱わなかったという旨の見解を示しています(富士日興上人詳伝)。こうした富木殿ですから、大聖人御入滅後は身延に晋山された日興上人とも疎遠となり弘安8年(1285)の日興上人が営まれた身延での三回忌法要に参列せずに逆に下総で三回忌を執り行っています。結局、富木殿は最後まで大聖人の御真意に達することがなく平安元年(1299)に84歳の生涯を閉じています。大聖人の御真意に達することが出来なかったのは血脈付法の日興上人に随順できなかったこと尽きますが、それが現在の中山が謗法と化した根本原因となっているのは残念です。とはいえ、大聖人を外護し下総地方の中心者として信徒を統率し大聖人の御書を格護し後世に残したという功績は称賛されるべき事跡です。それ故に中山法華経寺が一日も早く富士の清流に戻ることを念じて止みません。

■過去記事▶五老僧超略伝④伊予阿闍梨日頂 - 創価ダメだしブログ

他門流寺院見聞記⑤【正中山法華経寺・日蓮宗】 - 創価ダメだしブログ

 

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