創価ダメだしブログ

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五老僧超略伝④伊予阿闍梨日頂

伊予阿闍梨日頂は建長4年(1252)駿河国静岡県)重須の豪族・小林伊予守定時を父として産まれましが父が戦死し母が鎌倉に出て、その時に富木常忍と再婚しまし富木常忍の養子となりました。弟に後に日興上人の元で重須の学頭となった日澄師、妹に乙御前がいます。妹の乙御前は御書を承った日妙聖人の娘の乙御前とは別人です。日頂は富木常忍の香花寺であった若宮の真間弘法寺(当時は天台宗寺院)で出家し文永4年(1267)頃に大聖人に謁し弟子となり日頂の名をたまわりました。大聖人ご在世の時はこれいった功績はありませんが、富木常忍が釈迦仏を建立した時に大聖人に代理で開眼をしています。身延において大聖人の元で薫陶を受けていましたが熱原法難の際にも特別な活躍はしていません。ただ【伊予房は機量物にて候ぞ】【いよ房は学生になりて候ぞつねに法門きかせ給へ】と御書に書かれているように法門理解に関してはある程度大聖人の信頼を得ていたと思われます。大聖人が御入滅の時には葬儀も、その後の百日法要にも日向同様に「他行中」として不参加でした。他門流はこの向・頂の不参加について「止む得ない正当な理由があっただろう」という推測していますが、ならば逆に「他行中」の内容を誰も伝えていない方が不自然だと私は思います。だた日向同様、大師匠である大聖人の葬儀と百日法要のどちらにも不参加だったことは向・頂は弟子としての自覚に著しく欠けていたと思われても仕方ないでしょう。日頂においては養父・富木常忍が大聖人の葬儀に連なっていますから尚更「他行中」の内容が伝えられていないのは不自然です。さて、大聖人滅後の日頂は最初は真間弘法寺を弘教の拠点とし、永仁3年(1295)頃からは和名ヶ谷(現在の松戸あたり)を拠点に教線を張っています。養父・富木常忍は若宮の法華寺と真間の弘法寺を両寺一寺制を敷いていました。若宮法華寺の流れを中山門流といい弘法寺の流れを真間門流といいます。日頂は一応は真間門流ということになりますが、常忍の子でありながら法華寺弘法寺どちらも相続できませんでした。これは日頂が永仁元年(1293)に常忍に勘当されたためです。勘当の理由として中山門流では法華寺で行われた大聖人の3回忌法要に遅参し勘当されたという、いわゆる「泣き銀杏」伝説を用いていますが、真間門流では真間の俗別当(在家の寺院経営者)であった及河七郎宗秀の讒言により日頂は勘当されたという事になっています。及河七郎宗秀は我が子を弘法寺の主職にしようと企て邪魔者の日頂を落とし入れたわけです。当時、日頂は真言宗僧侶と通行がありそのことを常忍に讒言したということです。中山の「泣き銀杏」説より真間の及河陰謀説の方が有力と言われています。いずれにしても日頂の勘当は常忍が死ぬまで解かれることがなく、法華寺は帥阿闍梨日高(大田乗明の子)に弘法寺は日楊(及河七郎宗秀後見人)に相続し富木常忍は正安元年(1299)に無くなりました。(弘法寺の開山は日頂となっていて日頂から日楊に相続した説もあります)さて、日頂は常忍の死の翌正安2年(1300)3月まで和名ヶ谷にとどまり、その後に故郷の重須に帰ります。日頂は弟の日澄師の後を追うように富士に戻りましたが、重須に戻ってからの日頂の動向を伝える文書は何もなく詳しくは分かっていません。そして文保元年(1317)3月8日。66歳で入寂しました。日頂の母・妙常尼は日常寂後に重須に移り、日頂・乙御前とともに隠棲したと伝えられおり、その草庵が現在の重須・正林寺で日頂が開山となっており、日頂達の母(妙常尼)、日頂、日澄師、乙御前、定時の5人のお墓があります。

 

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