創価ダメだしブログ

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日興上人別伝・身延離山④(地頭・波木利日円)

日興上人の身延離山は偏に地頭・波木利日円(南部実長)の謗法によります。日円は南巨摩郡の波木利に住していたことから波木利殿と呼ばれていました。子息は諸説ありますが長男から、六郎次郎・六郎三郎・六郎史郎・弥六郎(日教)の4人がいたようです。日円が大聖人を知ったのは日興上人が四十九院の所化時代の頃と言われ興師が同郷であったので意気投合し日興上人が大聖人の門下になると念仏を捨てて大聖人門下になりました。時期としては定かではありませんが文永6年前後と思われます。尚、実長が入道して日円と名の乗ったのは弘安4~5年ころと言われています。大聖人より御書を数編賜っていますが目立った外護の働きは大聖人身延入山後の9年間以外はありません。日円の信仰態度としては『八風抄』に

◆だいがくどのゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだ・いのり叶いたるやうに・みえて候、はきりどのの事は法門の御信用あるやうに候へども此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば・いかんがと存じて候いしほどに(中略)だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし、又だんなと師とをもひあひて候へども大法を小法をもつて・をかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、我が身も・だんなも・ほろび候なり。

と大聖人の御指導を聞き入れなかったり。『地引御書』に

◆ただし一日経は供養しさして候、其の故は御所念の叶わせ給いて候ならば供養しはて候はん、なにと申して候とも御きねんかなはずば言のみ有りて実なく華さいてこのみなからんか、いまも御らんぜよ此の事叶はずば今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん、叶いて候はば二人よりあひまいらせて供養しはてまいらせ候はん、神ならはすはねぎからと申す、此の事叶はずば法華経・信じてなにかせん

とあるように不安定で弱い信心であったと思われます。その日円が地頭である身延に大聖人が入山されたのは、日円よりも寧ろ日興上人に対する御信頼、将来の相承への御考慮が理由だと思われます。三度目の国諌の後に隠棲される場所は身延以外に富木常忍や曽谷教信のいる下総や池上兄弟のいる武蔵など、日円以上に篤信の有力檀那は他にも多数いたわけですから、そのなかで敢えて日円の所領である身延の地を選ばれたのは日興上人に対する御信頼によるものと拝されるでしょう。さて、大聖人滅後に日円と五老僧との不和が表面化し、五老僧から謗法である批判された日円でしたが当初は謗法は無かったと日興上人は『美作房御返事』に書かれているのは前回の記事通りです。日円の謗法は、前回記事に書いたように弘安8年春頃に日向が身延に登って日興上人より学頭に任命された後のことになります。弘安9年には早くも日向に不法(謗法)の様子が現れたことを日興上人は指摘していますが、その翌年の弘安10年になると日円は立像仏建立を制止する日興上人の御指南を聞かず、更に日興上人の三島社参制止も不法の学頭・日向擯出の言葉も聞き入れなくなり、また福士の塔の供養に参加します。さらにその翌年の正応元年には絵曼荼羅を書かせたり、二男の六郎三郎(弥三郎)に念仏無間・神社不参について日興上人にわざわざ質問させたりします。またこの年の11月24日の大師講敬白において日向は違例の国祷を為します。事ここに至り日興上人は原殿に詳細を報告し身延離山の決意を表明します。この原殿書が書かれたのは正応元年12月16日の事になります。この原殿書を巡って古来から日興上人の身延離山には正応元年説(原殿書を書いた時にはすでに離山していた)と正応二年説の二説ありますが、現在では正応元年説は否定され正応二年が日興上人の身延離山の時期とされています。

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