創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日興上人別伝・身延離山②(身延入山と五老僧)

大聖人の御葬儀と初七日法要を終えた日興上人は、弘安5年10月21日に大聖人の御遺灰を抱いて池上を出発し、27日に身延に入山されました。

◇御身骨を身延山に移し奉る事。或記に云く、御身骨をば御遺言に任せて、10月21日池上より飯田まで、22日湯本、23日車返、24日上野南條七郎宿所、25日甲斐の国に入り給えり云々(元祖化導記・日朝著)

日位筆と言われる『大聖人御葬送日記』では19日を池上出発説をしていますがいずれにしても弘安5年10月下旬には日興上人は身延に入山され以降離山までの間、身延の別当として身延久遠寺に常住します。近年、『美作房御返事』や『尊師実録』の切文を用いて日興上人の身延入山を弘安7年或いは8年と主張する他門・異流義の人々が見受けられますが、彼らの魂胆は日興上人の身延入山を弘安7年以降とすることにより、身延久遠寺戒壇大御本尊は存在してなかったことにしたいのです。確かにこの頃の史料は乏しいですが、弘安7年(または8年)身延入山説は道理に合わない上に、推定弘安5年の波木井実長より身延の日興上人へ奉った書状(実長状)冒頭に◇おおせかうりて候し子細うけ給わり候ぬ云云と書かれているのでどんなに遅くても日興上人の身延入山時期は弘安5年の12月であることはほぼ確実で弘安7年説は否定されます。さて日興上人の身延入山から年が明けた弘安6年正月には大聖人の百箇日法要が身延で執り行われその時に『墓所可守番帳事』が定められ大聖人の墓所の毎月の香華番が定めれます。しかしながら日興上人とその弟子以外の五老僧一門はこの墓所の輪番をついに一度も守ることはありませんでした。向・持二師についてはそもそも百箇日法要にも不在で『墓所可守番帳事』を承知していたかどうかは分かりませんが、昭・朗二師においては地頭・波木井実長(日円)が不法(謗法)であるから身延久遠寺に登山しないと言い自身を正当化しています。当時はまだ日円には不法の様子はなく日興上人が五老僧方と日円の仲をなんとか取り持とうと尽力していることが当時の史料から窺い知ることができます。そもそも、日昭は大聖人が随身所持していた釈迦像を日郎は大聖人所持の註法華経を身延から盗みった老僧です。(後に偽作の書面を作り大聖人の形見分けと称しています。この偽作の通称・池上本については別の機会に言及したいと思います)自分達がそのような不法を犯してるのを自覚しているからこそ、事を日興上人の弟子である日円に寄せて身延不登山を決め込んだではないかと想像されます。自分達の不法を隠すために却って身延久遠寺の地頭が不法だから登山しない。これが現在の池田創価・浅井顕正と通じますね。自分達が謗法なのに大石寺は謗法の山だから登山しない。まさに身延不登山の五老僧と同じです。身延久遠寺別当として大聖人の残した教団を維持・発展させていくために他の老僧と異体同心で進めていきたかった日興上人が来る日も来る日も他の老僧の登山を待ちわびていたと思うと胸が痛みます。結局は2年たっても五老僧達は身延を訪れることはなく、身延久遠寺での大聖人の三回忌法要は日興上人とその弟子檀那だけで執り行われることになりました。こうして五老僧達は大聖人が御入滅した直後から身延久遠寺を捨て師敵対の道を進みます。現在の日蓮宗はそうした歴史を反省することなくあたかも身延久遠寺はあたかも自分たちが受け継いで守ってきたかの如く振舞っています。身延日蓮宗はすでに鎌倉時代に現在の自宗の総本山である身延久遠寺を蔑ろにして捨てたのです。身延日蓮宗の中には日蓮正宗創価顕正会と同列に扱うような印象操作をネットでしている僧侶も見受けられますが、創価顕正会と同列なのは寧ろ身延日蓮宗の方であるといことを身延僧侶には自覚してもらいたいものです。

 

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