創価ダメだしブログ

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日興上人別伝・身延離山③(日向の登延と美作房御返事)

弘安7年10月13日に身延久遠寺において他の老僧が不参のなかで日蓮大聖人の三回忌法要を執り行った日興上人がその直後に、上総国の美作房日保師に書かれたのが『美作房御返事』です。同書の詳細については別に機会に譲りますが内容を要約すると「鎌倉方(日昭・日郎)の老僧は地頭・日円(波木井実長)が謗法を犯しているので大聖人の魂は身延に住んでしないといって墓所輪番も守らず一向に登延してくないが日興上人は日円が謗法を犯しているとは思えないし日興上人も日円も老僧方に他意はない。故に日興上人や日円に対する誤解をといて門下の人達が身延に参詣してくれればどれほど嬉しい事か、貴僧(美作房)も是非お越し下さる事を望んでいる」という書面です。この『美作房御返事』から推測すると三回忌の頃には既に身延と鎌倉方とは没交渉の状態にあったと思われます。昭朗二師の鎌倉方老僧は厭延山思想があり日興上人や日円は融和へ努力していたという状態だったと思います。鎌倉方老僧の厭延山の詳しい理由は史料が乏しく分かりませんが、『美作房御返事』から読み取ると地頭(日円)に対する悪感情が根本となっているようです。日円に対する悪感情の原因までは分かりませんが個人的な推測としては百箇日法要の際に昭朗二師が身延から大聖人の遺品である釈迦像・註法華経を盗み取ったことが鎌倉方老僧が日円に対して悪感情を抱くきっかけになったのではいと思います。いずれにせよ鎌倉方老僧は日円に対して悪感情を抱いていたようですが、日円は鎌倉方老僧に対して悪感情を抱いてはおらず無論この時期に謗法は無かったと日興上人も言っていますので、日円に対する鎌倉方老僧の悪感情は、それが誤解や思い過ごしが生んだ一方的なものであると言えます。日興上人の諸老僧に対する苦心はその後も報われることなく諸老僧は謗法への道を進んでいくことになったのは、『富士一跡門徒存知事』や『五人所破抄』等に記されている通りです。さて、『美作房御返事』を受け取った日保師は上総の人でその近隣に民部日向は住していました。日向はおそらく、身延久遠寺や鎌倉方老僧の状況を日保師或いは本書を届けた越後房から聞き及んだものと推察されます。そして弘安7年の年末頃には日向は登延の意志を示し、そして翌、弘安8年の春頃に日向は登延したと『波木利文書』から知ることができます。上総国という場所的にも弘安7年という時期的にも『美作房御返事』が日向登延のキッカケとなった確率はかなり高いと思われます。日向登延に日円も日興上人も非常に喜ばれ日向は日興上人より身延久遠寺の学頭職を任命されます。このことで分かる事は、少なくても日興上人が身延の別当(院主)であるとうことを日向は納得していたということです。だからこそ、「日興上人からの学頭職の任命」を素直に受けたわけです。それは日興上人は身延久遠寺の院主であると日向が認めていたからに他なりません。では、日向はなぜ日興上人が身延久遠寺の院主(別当)であるか認めることができたのかといえば、現時点で考えられることは、『身延山付嘱書』(池上相承書)の内容を日向が知っていたという事以外に客観的な理由が見つかりません。つまり、『二箇相承書』があったか、或いは相承書としてなかったとしても『二箇相承』に書かれている内容は存在していて五老僧は知っていたという事です。(日興上人と日向だけが知っていたということは考えれません)『二箇相承』に対して疑義を差しはさむ人も大勢いますが史実と道理で推察すれば『二箇相承』は存在したと考える方が合理的で理論的です。さて、日向の登延は日興上人や日円にとって本当に嬉しい出来事だったのですが、この日向の登延が日円を謗法に誘い身延久遠寺を謗法化せしめ、遂には日興上人の身延離山へと導くことになります。日向の謗法は登延の翌年の弘安9年頃から顕れ始め、弘安10年に日円は日興上人の制止も聞き入れず立像仏造立発願をします。ここに日円の最初の謗法が顕れますが、日向が日円の謗法を助長したことは言うまでもありません。

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