創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

富士門流の法難①(熱原法難)

今回は前回の御書研鑽記事で少し触れた「熱原法難」について書きます。「熱原法難」は富士門流の法難において最大・最極の法難であり今後時代がいかに変わろうとも多くの意味で「熱原法難」を超える法難は起こることはありません。この「熱原法難」はどのようにして惹起したのかというとその遠因は日興上人の折伏戦にあります。日興上人はもともと富士地方有縁の方で御幼少時には四十九院で学びその後岩本実相寺で修学されいます。その時に実相寺を訪れた大聖人に接され13歳の時に御弟子になられたと言われています。ですから暇をみては日興上人は富士地方に折伏・弘教を進めていました。そして大聖人の身延入山を機に本格的な弘教のため日興上人は岩本に赴いています。そして実相寺では筑前坊等が四十九院では賢秀等が大聖人に帰伏し多くの信徒も続きました。それにより実相寺・四十九院では大聖人に帰依する住僧は迫害され四十九院では弘安元年に日興上人をはじめ大聖人の門下となった僧侶は住坊から追放され田畑を没収されました。(四十九院法難)しかしそんな事では日興上人等の折伏弘教は衰えることなくその教線はやがて近くの竜泉寺にも及びます。当時竜泉寺は天台宗の巨刹ながら院主が不在で行智が代理(院主代)として采配をしていました。行智は平左近入道とも称され在家のまま仏門に帰依したただの入道(創価池田や顕正浅井みたいなもの)でしたが一族である平左衛門尉頼綱の威光によりこの巨刹を仕切っていたと思われます。その行智の行いについては御書の『滝泉寺申状』に書かれていますが、経巻を切り解して堂舎の修理に使ったり、窃盗をした悪僧から金品を受け取り無罪にしたり、鳥獣をとって酒のつまみにしてたり、池の鯉を殺して売り捌いたりという惨状でした。こうした行智の専横と宗旨の堕落を憂いていた竜泉寺住僧は当然挙って大聖人に帰依します。中でも下野坊・越後坊・少輔坊は大聖人からそれぞれ日秀(下野坊)・日弁(越後坊)・日禅(少輔坊)の法名をもらっています。もちろん僧侶だけでなく在家信徒も続々と大聖人へ帰依していきます。焦った行智は対抗策として法華経を捨てなければ領地没収・住坊追放の脅迫にでましたが、日秀・日弁・日禅の三師はこれを拒否し竜泉寺を追放されてもなお折伏の手を緩めませんでした。また大聖人も大進房・三位房を派遣し富士弘教を応援しました。こうした中で熱原農民の神四郎・弥五郎・弥六郎の三兄弟は入信します。弘安元年2月のことです。さて脅迫も通じず折伏の勢いも衰えない法華宗に対し行智はついに法華宗徒の撲滅を企てます。ニセ御教書で太田親昌・長崎時綱を退転させ大進房・三位房を誘惑し寝返らせ、さらに神四郎兄弟の長兄・弥藤次を抱き込むなど謀略を巡らせます。こうした状況下の弘安二年4月8日には富士浅間神社の祭りの最中に法華宗徒の四郎男が斬られ重傷を負い同年8月には弥四郎が何者かに斬首される事件が勃発します。全ては行智の策略でしたが行智はそれらを日秀師の犯行であるとデマを流します(創価のやってきたことと同じですね)そしてそんな事件の約1か月後の弘安二年9月21日。日秀師の所有する田圃の稲刈りに神四郎等法華宗徒が手伝いに集まったところを、武装した行智の配下に襲撃されるのです。そこには太田親昌・長崎時綱・大進房・弥藤次も加わっていました。神四郎たちも鎌・棒などで応戦するも武装した武士集団相手に勝ち目はなく遂に20名が捕えられその日のうちに鎌倉へ押送されます。その訴状は武装した神四郎達が行智の田圃に押し入り稲を盗んだ。というまったくデタラメな刈田狼藉の罪です。その報を聞いた大聖人は早速色々と手配され日興上人は20名の釈放と行智の糾弾要求の書状(竜泉寺申状)を書きあげ日秀・日弁両師と鎌倉に向かいます。鎌倉に送られた神四郎達は10月15日に平左衛門尉頼綱の私邸の庭で尋問を受けます。もとより冤罪ですから正規の取り調べなどなく法華経を捨てて念仏を唱えれば無罪として熱原に帰すという脅迫・強要です。しかしそれに誰も屈することがないと見るや平左衛門尉頼綱は次男・飯沼判官資宗に命じ神四郎等に蟇目の矢を放つという拷問に打って出ました。蟇目の矢とは矢じりの部分が木でできている矢で当たっても死には至らないものの当たれば激痛です。しかしそれでもなお力強く一糸乱れぬ唱題の声に平左衛門尉頼綱は恐らく怒りよりも恐怖・脅威を感じたのでしょうついに狂乱し神四郎・弥五郎・弥六郎の3名を事件の首謀者としてその場で斬首してしまいます。日興上人達が鎌倉についたのは三烈士が斬首されたあとの夕刻でした。そのご日興上人達の尽力で残る17名はほどなく釈放されました。これが「熱原法難」のあらましです。平左衛門尉頼綱・飯沼判官資宗は「熱原法難」から14年後の永仁6年に謀反の罪で三烈士を斬首した同じ私邸の庭で斬首され平左衛門尉頼綱の長男・宗綱は佐渡流罪。妻子眷属は追放となり一門は滅亡しました。(平禅門の乱)。永仁6年4月のことです。竜泉寺もその後衰退し消え去りました。現在、富士市にある「熱原山竜泉寺」は昭和36年に日達上人が建立された日蓮正宗の寺院です。この「熱原法難」を機縁にされ大聖人がご建立されたのが出世の本懐である弘安二年の戒壇大御本尊です。その脇書きには【本門戒壇の願主弥四郎国重法華講衆等敬白】と記されています。戒壇大御本尊は総じて理としては一切衆生に与えられた本尊ですが、別して事の上においては熱原三烈士を筆頭とする【法華講衆】に与えられた本尊なのです。創価が大御本尊を捨てるのは勝手ですが、法華講衆に与えられた御本尊のコピーを謗法者の君達が拝んでいいわけない。ニセ本尊とかいう以前の問題なのだよ。また法華講衆でもない謗法者が戒壇大御本尊についてアレコレいう資格などないのです。「戒壇大御本尊なんてミサイルひとつで壊れてしまうただの物体」などと軽口をきく創価民などには「戒壇大御本尊」のことも「熱原法難」のことも語る資格など1ミリもない事を自覚しなさい。

 

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