蓮華阿闍梨日持は五老僧の中で最も謎の多い人物です。建長2年(1250)駿河国(静岡県)庵原郡松野の生まれ松野六郎衛門の子息とされてますが定かではありません。しかし松野家と重縁ある一族の生まれであることは間違いないでしょう。幼名を松千代といい幼くして同国の岩本実相寺に入り出家しました。正嘉2年に大聖人は実相寺経蔵に入られたので当時9歳の松千代は大聖人に会われたことがあるかも知れません。当時は実相寺の近くの四十九院に四歳年上の日興上人がいたことから、日興上人の『本尊分与帳』に「日持は日興の最初の弟子也」と書かれているように松千代は日興上人に師事しその後日蓮大聖人の弟子となったと思われます。身延日蓮宗では日持が日興上人の弟子だったことは認めていませんが、日持を大聖人の許に手引きしたのは日興上人であると見解は概ね一緒です。日興上人が大聖人に弟子入りしたころ松千代は得度して甲斐公と名付けられ叡山に遊学し天台密教を学びますが理同事勝の釈に疑義を抱き実相寺の寺主の勧めで鎌倉に大聖人を訪ね改宗し門下にならんことを請い許され日持という名を受け賜りました。文永7年(1270)日持21歳の時とされています。(入門時期については文永7年以外にも諸説あります)弟子入り後の日持の活躍としては松野の大夫房日教、四十九院の治部房賢秀日位、松野次郎三郎を教化したことが挙げられます。また日位と同じ四十九院の日源も日持が教化したのではないかと言われています。熱原法難の際には、日位(賢秀)と日源(承賢)は当時四十九院寺内に居住していた日興上人・日持とともに四十九院の二位律師厳誉に住坊と田畠を没収さて追放されると難に遭っています。また大聖人の御書である「持妙法華問答抄」は日持が執筆したという説もありますが確かな証拠も説得力もないことからこの説は身延派においても否定しています。熱原法難後の日持の消息は定かではありませんが、恐らくは日興上人と共に身延に帰り大聖人のもとで暮らしていたと思われます。さて日持は身延山から下山する大聖人に池上まで同行し大聖人の御遷化にも立ち会い御葬送の時は日郎と共に前陣に連なっています。『御遷化記録』に判もあるので百箇日法要にも参列しています。大聖人御入滅後、身延の地で日向の謗法により日興上人と日向・日円の対立が厳しくなり日興上人は身延を離山しますがこの頃に日興上人から離反する僧俗が多く現れ日持も日教・日位など自分が教化した者たちと共に日興上人に違背しました。その頃、日持は松野に帰り近辺の弘教をしていたようです。正応元年6月8日に大聖人の七回忌を偲び池上本門寺に大聖人座像を安置しその座像は現在では国宝指定されています。また松野次郎三郎の外護をうけ松野に妙本山連永寺を建立。連永寺はその後にお万の方によって静岡・沓谷に移し貞松山連永寺とし日持の遺徳を顕彰し、松野の寺院を永精寺と改めました。現在では日持所縁の寺院は貞松連永寺のみで日蓮宗になっています。さて、日持は連永寺を大夫房日教に付しここから異国での布教を目指すことになります。その出立の日は諸説ありますが、その出立の日を日持の命日に定めています。松野を出立した日時は東北・北海道と進みその後、沿海州から満州吉林より山海関を超え永平・正定に進み北上して蒙古に入りウランバートル・カラコムに入ったと伝えられています。北海道の渡島半島の西南突端恵山のふもとに椴法華(とどほっけ)の名前があるのは【渡唐法華】の意で法華経の僧侶が唐土に渡ったという処からつけられています。因みに函館市も椴法華港という港があり、この界隈は昔は椴法華村だったそうです。
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