民部阿闍梨日向は日興上人より7歳年下で建長5年(1253)上総藻原(現在の千葉県茂原市)に産まれ、父は男金の小林民部実信。幼名を民部といい実長と名付けられました。10歳の時に父・実信の知人であった高乗院岳天に随い叡山に登って出家しました。大聖人の直弟子に「にちこう」と読める人が3人いて、「日興(にっこう)」「日高(にちこう)」「日向(にこう)」と呼び表して区別します。文永元年(1264)に伊豆流罪を許された大聖人は一時故郷の安房の国に戻られますがその時に父・実信が大聖人の教えに心服し日向を叡山から呼び戻して大聖人の弟子に加えてもらいました。日向13歳の時でした。同時期に富木常忍の子息の伊予房日頂も大聖人の弟子になっています。身延の伝では大聖人が佐渡流罪の折に向・頂も随行したという事になっていますが確かな証拠はありませんし仮に二師が佐渡に随行したとしても期間は1か月ほどで日興上人の随従給仕とは比べ物になりません。大聖人が身延入山後は他の弟子ともに身延で過ごしました。日向があらわした書に『金鋼集(きんこんしゅう)』という他宗破折の書がありますがこれは身延での大聖人の御教示に自身の見聞を加えたものです。また『御講聞書』(日向記)は身延門流では現在では偽書扱いになっています。日興上人の『御義口伝』を偽書扱いしている手前『御講聞書』だけ真書という訳にはいかなのでしょう。建治二年(1276)に清澄寺ぼ道善房が逝去した折には大聖人より『報恩抄』を義浄・浄顕に読み聞かせ道善房の墓前においても同抄を読むという役目を安房の国の出身であったことから日向が仰せつかり、また熱原法難時には大聖人から日興上人の元へ派遣されていますのでそれなりに大聖人から信頼をされていたと思われます。しかし大聖人が御入滅の時は「他行中」と称して日頂とともに御葬儀に参列しておらず百箇日法要も欠席しています。「他行」の内容については今なお不明ですがいかなる理由があったとしても大師匠である大聖人の葬儀に参列しなかったのは弟子としての資質に欠けていたことは否めませんし。そんな日向ですが弘安8年になってそれまで疎遠にしていた身延の日興上人の元を訪ねてきます。墓所輪番も守らない五老僧に対して心を痛めていた日興上人は日向の身延登山を殊の外喜ばれ日向を身延の学頭として登用しますが日向は地頭・波木井日円(実長)を誑惑しこれが日興上人を身延離山へと誘います。(身延離山についてはいずれ詳しく記事にします)その後は日興上人に取って代わり身延の院主の座につき現在の身延日蓮宗の元になる山規等を定め体裁を整えていきました。日向の弟子に五老僧の一人である日頂の実弟で寂日房日澄師がいますが、澄師は日向の造仏の謗法を容認することができず日向の元を離れ日興上人の戻り重須談所の初代の学頭になっています。日向は身延に住すると同時に弘安8年に斎藤兼綱寄進の現在の藻原寺の住持も兼ねました。また武州北足立郡(現在の埼玉県)に妙顕寺を開き、身延に樋沢坊、池上に喜多院を創し正和2年に身延を退き茂原に帰り近辺の坂本の法華谷の法華堂に隠棲し正和3年9月3日に62歳で入寂しています。この法華堂は現在でも藻原寺の奥の院として重んじられています。こうしたことから日向門流は、【身延門流】【茂原門流】と呼ばれます。このように日向は日興上人から身延久遠寺を掠め取り身延日蓮宗の謗法の根源であることは史実であると言ってよいでしょう。
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