創価ダメだしブログ

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日興上人別伝・身延離山①(序文)

昨年2月に日興上人の略伝を書きましたが、日興上人の御生涯で一番の出来事といえばやはり身延山離山からの富士大石寺開創だと思います。そこで日興上人の別伝として数回に分けて日興上人の身延離山の略伝を書きたいと思います。それに先立って日興上人の御立場について最初に書いてみます。いうまでもななく日興上人は宗祖・日蓮大聖人より大聖人の仏法の全てを唯授一人血脈相承だれた御方です。それは、

◆「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主この法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中く我が門弟等此の状を守るべきなり。」弘安五年(壬午)九月 日、日蓮 花押、血脈の次第 日蓮日興」(日蓮一期弘法付嘱書)

◆「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。」弘安五年(壬午)十月十三日、武州 池上、日蓮 花押」(身延山付嘱書)

の二箇相承に明らかですが、他門流はこの二箇相承書が紛失し現在に至るまで発見されていないことをいいことに二箇相承書を偽書扱いして日興上人への血脈相承を否定することに躍起になっています。二箇相承書に関する他門流の疑義に対する詳しい破折はまた別の機会に譲るとして史実をみれば大聖人が日興上人に唯受一人血脈相承をしたことは疑いのない事でその史実をもって二箇相承書が存在したことを裏付けています。例えば日興上人は五一の相対で五老僧を破折しています。つまり六老僧の中でただ一人日興上人だけが他の五老僧とは違った教義を主張していたのです。そしてその主張(例えば曼荼羅本意や大聖人御本仏など)は大聖人の御妙判と符合しています。このようなことを日興上人が我見で主張する理由は全くなく日興上人の主張は正に大聖人より相承を受けた証です。また法門理解のレベルも日興上人の『御義口伝』と民部日向の『御講聞書』を読み比べれば分かるように同じ大聖人の講義を聞きながらその内容には雲泥の差があります。また、伊豆・佐渡の地での大聖人への常随給仕や熱原法難を呼ぶ起こした折伏など大聖人御在世時代の日興上人の行動は五老僧の追従を許さないと言えます。これらの事績を勘案すれば身延山相承書に明記されているように大聖人が身延山久遠寺を日興上人に譲られたのは当然すぎるほど当然です。他門流は池上本門寺蔵の日興上人筆と伝える『身延山久遠寺番帳事』(池上本)を持ち出し墓所守護輪番制を身延山久遠寺輪番制にすり替え身延山久遠寺別当は日興上人だけではなく上足18名による輪番制などと主張したこともありましたが、池上本は日興上人の御筆はない偽書であることは明白です。(詳細は割愛します)仮に身延山久遠寺別当職が六老僧を中心とした輪番制であったとしても事実として民部日向が弘安8年に登山するまでの約3年間、五老僧は誰一人として身延久遠寺別当として住持した者はいませんし、身延久遠寺に住まわれていた日興上人を非難した様子もない。別当職が輪番制ならば彼等はその権利を放棄し師敵対の行動をとったという事です。さすがの五老僧もいくらなんでもそこまであからさま師敵対をするはずはない。ということは五老僧は日興上人を身延久遠寺別当と認めていたということです。民部日向が日興上人に学頭職に任命されそれを受けたという事実も日興上人が身延久遠寺別当職にあってそれを他の門下も認めていたという証左です。つまり二箇相承書が無くても史実として身延山久遠寺は日興上人だたお一人が相続したのです。もし大聖人に唯受一人血脈相承をする意思がなければこのような事になる訳がありません。つまり大聖人は日興上人に唯受一人血脈相承をしたという事なのです。いずれにせよ日蓮大聖人から身延久遠寺を譲り受けた日興上人が師から相続した身延山を離れなければならなくなったその経緯を次回から書いてみたいと思います。

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