創価ダメだしブログ

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日蓮大聖人檀那略伝②・四条金吾殿(下)

佐渡流罪が赦免された大聖人は文永11年(1274)3月26日に鎌倉に戻り同年4月8日に平左衛門尉と対面し3度目の国家諌暁をするも聞き入れられず身延に入山されますが、生きて2度とは帰れないといわれた佐渡流罪から大聖人が戻られたことは門下一同には大きな喜びであり就中竜の口の頸の座までお供し殉教すら決意した四条金吾の喜びは測り知れません。金吾はその歓喜と大確信に立ち主君・江間氏に対して文永11年9月に折伏を敢行します。江間氏は極楽寺良寛の熱心な信徒でしたがそれまでは金吾の法華信仰に対して咎めることも無く主従関係は和やかでしたが折伏後を機に金吾は主君より不興を買うことになります。そこから金吾の人生中で最も苦しい時期が始まりますが金吾は大聖人のキメ細やかな御指導を良く守り忍従の日々を過ごします。そんな中、健治3年(1277)には『桑ケ谷問答』事件が起こります。『桑ケ谷問答』とは健治3年6月9日、大仏殿の門の西桑ケ谷にある愛染堂で行われた大聖人の弟子の三位房日行と天台宗の竜象房との問答で、この時に三位房が金吾を誘いました。この問答に金吾は法座に遅れましたが問答自体は三位房の圧勝で竜象房はその夜のうちに逐電しましたが恥をかかされた竜象房は極楽寺良寛と計って金吾を陥れんがために江間氏に金吾が武装し徒党組んで乱入し法座を乱したと讒言をしました。これを真に受けた江間氏は金吾に「大聖人の信仰を捨て起請文を書け。さもなくば所領を没収する」という内容の下文を出します。これに対して金吾に代わって大聖人が江間氏に陳情を書きました。それが『頼朝陳情』です。起請文を書かなかった金吾はついに所領を没収され主君の勘気を受けます。その間に大聖人から幾たびの指導・激励が金吾の許に届きました。そんな勘気の最中の健治3年9月頃に疫病が流行し江間氏や同僚たちが次々と疫病に倒れます。病気が一向に回復に向かわない主君はついに勘気中の金吾を召し金吾の尽力で病気は回復し健治4年1月には晴れて金吾の勘気は解かれます。文永11年から始まった金吾の法難は3年余りの時を過ぎ没収された所領は3倍となり戻り、ついに見事な勝利で幕を閉じたのです。金吾の医術はその後は大聖人を良く治療しました。また熱原の法難の時も鎌倉信徒の指導者的な立場でその力量を発揮し尽力したであろうと御書から見て取れます。大聖人の身延での晩年の弘安3~4年にかけては度々身延に参詣し時には長期逗留をして大聖人にお給仕されていたと思われます。大聖人の身延下山の時も主治医としてお供し大聖人のご入滅の時もそばを離れずに最後までお仕え申しあげたのです。大聖人の御葬儀の時は左幡を金吾が持ったと『御遷化記録』には書かれています。御遺骨を身延へ御安置した後はその近くに住し喪に服したといわれ、そこが現在の身延山の東端の端場坊になったと伝聞されています。その後の事については正確な記録は残っていません。金吾は正安2年(1300)3月15日、71歳で寂し、妻の日眼女は嘉元元年(1303)金吾と同じ3月15日、62歳で寂しています(他説あり)。日興上人が身延離山後は内船山梨県南巨摩郡)に移住し度々日興上人のもとを訪れてもいます。金吾夫妻のお墓は現在の日蓮宗内船寺に仲良く並んでいます。

 

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