創価ダメだしブログ

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日蓮大聖人檀那略伝①・四条金吾殿(上)

富士宗門史として今回から日蓮大聖人御在世の信徒の略伝をかいていきたいと思います。独断と偏見でトップバターは四条金吾です。四条金吾の正式名は【四条中務三郎左衛門尉頼基】といいます。四条は性、三郎は通称、頼基は名で中務は父・頼員の官名(中務少丞)で、左衛門尉は頼基の官職位です。この左衛門尉を唐名で金吾校尉と呼ぶことから四条金吾と通称さていました。金吾の家系は現在も続いていて四条家に残る家系図によると四条家藤原鎌足の後裔で父・頼員は承久の乱の後に北條一門の名越遠江守朝時その嫡子越後守光時に仕え頼員は建長五年に他界しています。金吾は寛喜二年(1230)に生まれ、正安三年(1300)年に没しており、妻の日眼女は池上の出と言われています。兄弟は頼隆・頼季・頼実の3人がおり他に妹が一人いたようです。さて、金吾は建長八年(1256)27歳の時に大聖人に帰依しました。一説によると金吾は建長寺の参禅に通っていてその折に大聖人の御説法を拝聴する機会があり入信しさらに工藤吉隆などの参禅の仲間を折伏したと言われています。金吾入信後4年目に大聖人が『立正安国論』を幕府に上程しましたがそれから大聖人に対する迫害が始まり、文永六年(1269)には金吾も富木常忍や大田乗明とともに問註所に召喚されました。こうした状況下でも金吾は大聖人の御指南に触れ信心修行に精進していました。そんな中で文永八年(1271)に長女の月満御前が生まれています。そしてこの年(文永八年)に竜の口の法難が惹起します。竜の口の刑場に向かう途中、大聖人は行列を止められ熊王丸という童子を金吾の元に遣わせます。熊王丸から知らせを聞いた金吾は兄弟3人と共に大聖人の許に駆け付け泣きながら馬のクツワに取りすがり自らも殉教覚悟で竜の口まで大聖人に同行します。そしていよいよの時を迎えると金吾は「ただ今なり」と号泣します。その様子をご覧になられた大聖人は、「不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞ」と金吾を諭すのです。この場面は『種種御振舞御書』に書かれていますがいつ読んでもウルっときます。「師匠に地獄の果てまでついてこい」などというどこぞの新宗教の永遠の師匠とは大違いです。結果は竜の口では大聖人を処刑することは出来ず大聖人は佐渡流罪となりますが、金吾は度々佐渡の大聖人の許へ御供養をお届けするとともに文永九年には佐渡の大聖人の許を訪れています。これに対し大聖人は「在俗の官仕隙なき身に此の経を信ずる事こそ稀有なるに山河を凌ぎ蒼海を経て遙に尋ね来り給いし志・香城に骨を砕き雪嶺に身を投げし人人にも争でか劣り給うべき」とその志を讃え、妻の日眼女に対しても「はかばかしき下人もなきに・かかる乱れたる世に此のとのを・つかはされたる心ざし大地よりも・あつし地神定めてしりぬらん・虚空よりも・たかし梵天帝釈もしらせ給いぬらん」と大切な夫を佐渡の大聖人の許へ遣わせたその信心をお褒め下さっています。佐渡で書き示された人本尊開眼の書である『開目抄』は四条金吾に門下を代表して与えられていますが、大聖人が人本尊であり御本仏であられることを誰よりも生命で感じ取っていたのが四条金吾だったのではないでしょうか。『開目抄』を与えるに一番ふさわしい信徒が四条金吾であったと納得します。(続く)

 

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