創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2024年1月・ 経王殿御返事)※獅子風蓮さんへの回答を含む

日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給う。 経王御前には・わざはひも転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき、「充満其願・如清涼池・現世安穏・後生善処」疑なからん

今月の座談会御書は『経王殿御返事』からの御文です。『経王殿御返事』は1ページ程度の短編ですが内容の濃い御書ですが、なかでも当該御文は本尊義を示す有名で重要な御文です。対合衆の経王殿については四条金吾夫妻の子供という説がありますがその詳細は不明で男女両説ありますが現在では男児説が有力になってます。病魔に冒された幼い経王殿の母に与えられた激励と信心の御指南の御書です。当該御文で重要なのは、日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給への所で、ここが大聖人仏法の本尊義の根本です。当御文を日寛上人は『妙法曼荼羅供養見聞筆記』で◇本尊に人法有り。法に約すれば妙法蓮華経なり。人に約すれば本有無作の三身なり。本有無作の三身とは日蓮大聖人これなり。御書に云く『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意みこころは法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』文。是れ人法体一なり。と会通され、日応上人は『弁惑観心抄』で◇宗祖所顕の御本尊は御自身の御当体・御魂魄こんぱくなりと明示せられたる云云と釈しています。つまり大聖人の御本尊とは人法一体であるということです。別体三宝で表せば御本尊は法宝ですがその法宝とは仏(人)と一体であるのです。池田創価教学のいう「宇宙の法則を図顕化」したものでなく、大聖人の心法(魂)を顕わした御本仏の色心二法の当体なのです。この魂を染め流すことによって非情である紙などが草木成仏の義によって本尊として成立するのです。ですから大聖人から内証(魂)を血脈相承した御歴代の法主上人が書写した本尊でなければ「本尊」ではなく、御形木本尊は法主上人が開眼をしなければ「本尊」にはならないのです。「開眼」とは草木である非情に魂を入れて人法一体の「本尊」と為すことです。人法一体であるからこそ、法力と仏力が具わるのです。「宇宙の法則」だけでは仮に法力があったとしても仏力は無いのです。この法義・道理が理解できないのが池田創価です。さて、当該御書について読者の獅子風蓮さんよりコメントありましたのでその回答を書きます。コメント内容は【以前『経王殿御返事』が偽書だという気楽非活さんを(獅子風蓮さんが)批判して書いた記事への感想】とのことですが獅子風蓮さんの信仰者の立場に立った反論はとても良いと思います。気楽活氏の記事については何度か質問を受けて当ブログでも言及(反論)したことがありその時にも書きましたが彼がもし日蓮正宗を批判するのが目的ならばハッキリいって知識不足で勉強不足。というか誰かの言説の二番煎じでオリジナリティに欠けるものです。彼と対論しているわけではないので放置していますが、「推論を事実として誤認させる」ロジックがとっても広宣部らしいテクニックだと感じます。私も元広宣部だからその手口はよくわかります。さて気楽非活氏の『経王殿御返事』偽書論はひと言でいえばナンセンスですね。彼の偽書論は経王殿が四条金吾の子供であることが大前提ですが冒頭に書いたように経王殿が四条金吾の子供であると確定していませんから大前提が既に彼の思いこみで事実確認されていません。つまり彼の偽書論は【論点先取】の詭弁です。彼の偽書論は前提となっている経王殿が四条金吾の子供であるという事実を証明しないと成立しないのでロジックとして最初から破綻しています。また「とのは子なし・たのもしき兄弟なし・わづかの二所の所領なり」(四条金吾殿御返事)を引用して建治3年7月の時点で、四条金吾には「子どもがいない」と主張していますが、四条金吾の末裔は現在も健在であり家系図も残っていてそこには月満御前以降の家系が書かれていますから健治3年7月時点で少なくても月満御前は存命です。(経王殿の消息は不明です)また四条金吾に兄弟がいたことも「三郎左衛門尉」という名前からして明らかです。ですから大聖人が『四条金吾殿御返事』の中で「とのは子なし・たのもしき兄弟なし」と言われたのは当時の金吾の苦境を救い出せるような頼りになる子供や兄弟がいなかったという意味であることも自明です。このように彼の偽書論は知識量不足故の空論・虚論です。気楽非活氏は無信仰者の論説ですからその論説によって仏法を批判すること自体が実はナンセンスなんですね。信仰者には「信仰的真実」というものが存在します。例えばキリスト教の「処女懐胎」や神道ユダヤ教の神話、或いは大乗仏典に書かれている描写など宗教には様々な非科学的な事が説かれています。それを「そんなことあるわけないだろ」と否定するのが無宗教者。それを信じるのが信仰者で現代科学で否定されるような事柄でも信仰者にとっては真実なのです。そうした「宗教的真実」を世界の多くの人間が信じキリスト教イスラム教も仏教も世界宗教となり、神社神道は日本に根付いているのです。そうした「信教的真実」と「学術的真実」を混同して信仰を批判するのは愚の骨頂です。正宗でも御書ついての学術的研究はしていますから新事実があれば更新しますが、信仰者にとって重要なのは真書か偽書でなく書かれている教えの内容です。真書以外信じてはいけないなら仏典は全て偽書であり仏教は全てインチキです。そんなインチキが世界宗教になる道理が無いのです。いずれにせよ巷間溢れている偽書説は推論の域をでません。まぁ気楽非活氏は無信仰者だからその点が彼の教学の限界でもしかたないですけど身延僧侶とかが偽書論を振りかざすと「オマエ等は僧侶だろう」って情けなくなります。

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