法華経の信心をとをし給へ火をきるにやすみぬれば火をえず、
鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ
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今月の座談会御書は四条金吾殿御返事の「煩悩即菩提御書」の最後の部分です。
まぁこの一節については法門的な事柄ではないので
普通に通解すれば意味は分かると思います。
敢えて言うのであれば、ここ一節は法華経方便品の
「勇猛精進 名称普聞」の法理とでもいいますかね。
短縮勤行の創価の皆さんも「勇猛精進 名称普聞」は朝晩読んでますよね?
え?短縮勤行すら短縮している?まぁそれはそれとして
◆法華経の信心をとをし給へ・・・勇猛精進
◆法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ・・・名称普聞
ということです。
「貫く信心」とは具体的にはこの御文の前文
といことで、「語っていく」法体はこの御文の前
◆多宝塔中にして二仏並坐の時上行菩薩に譲り給いし題目の五字
詳しい説明は省きますが、これは「戒壇大御本尊」様のことです。
要するに「大御本尊」に自行化他の題目をあげ
幸福になった姿を世間に実証と示す。
それが大聖人の弟子として、また成仏するための
「勇猛精進 名称普聞」の修行という事です。
なに?大作センセは世界で顕彰されいる?
ああ、非常に残念至極ではありますが
肝心な「勇猛精進」がないので、
その名が轟いたとしても意味ありません。
というかぶっちゃけ言うほど大作の名は轟いていません。(笑)
さて、この御文を講義をする創価幹部・活動家は
「学会員一人一人が四条金吾のような弟子なろう」的な話を良くしますが
四条金吾に失礼なのでやめていただきたく存じます。
四条金吾と言えば竜の口の法難に殉教覚悟で大聖人にお供した人物です。
◆此にてぞ有らんずらんとをもうところに案にたがはず兵士ども うちまはりさわぎしかば、
左衛門尉申すやう只今なりとなく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな
これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそくをばたがへらるるぞ(種種御振舞御書)
どうですか?この金吾の姿泣けてきます。
小説日蓮大聖人のこの場面は何度読んでも泣けます。
金吾が開目抄・聖人御難事を承った理由がわかります。
それに引き換え、お前ら創価の活動家ときたら
大石寺が謗法だから大御本尊を捨てると来たもんだ。
金吾のしていることはその真逆だろう?
大石寺が謗法というならむしろ大御本尊を守る。
その気概があってこそ四条金吾的弟子の姿なのです。
それをあっさりと大御本尊(大聖人)を捨てた君たちに
「四条金吾と同じような・・」なんてのは何度死んでも無理。
無理というか「言うな」とうことですよ。
さて、話は戻って大作センセ。
ガラクタのような勲章を集めて、自分が大聖人に肩を並べたかの如く悦に入っていますが
御本仏・日蓮大聖人のお名前は世界どころか十法界に轟いています。
大作センセなど遠く及びません。
◆日蓮は日本第一のふたうの法師ただし法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり、
其の名は十方の浄土にきこえぬ、定めて天地もしりぬらん(妙心尼御前御返事)
故に我等、大聖人の弟子旦那は死後も安心です。
◆中有の道にいかなる事もいできたり候はば日蓮がでしなりとなのらせ給へ(妙心尼御前御返事)
◆日蓮が弟子となのらせ給はばいかなる悪鬼なりともよもしらぬよしは申さじとおぼすべし、(妙心尼御前御返事)
死後において「大作センセの弟子」など言ってみたところで通じません。
ヤンキーの絡まれた時にとっさに「○○先輩の知り合いだ」といっても
肝心な○○先輩が知られてなければボコられておしまいです。
同じように閻魔大法に「池田大作?しらね~な」と言われて
そこで慌てて「大聖人の弟子だ」と言っても遅いのです。
◆日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず(一谷入道御書)
さぁ、心ある創価学会員の皆さん
生きているうちに「大聖人の弟子」として再出発してください。
大作センセは今世の師匠かも知れませんが
ご本仏・日蓮大聖人は三世の師匠です。
「強盛の大信力をいだして」
ご本仏に敵対した現世の師匠のもとを離れ
三世永遠の師匠の元に戻りましょう。