創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価と法華講の相違点

今日は、学会と法華講の違いを書いてみたいと思う。

もっとも、法華講員になったとはいえ

創価時代とは違ってバリバリの活動家になってわけじゃないので

法華講員さんの活動家さんが読むと「ちげ~よ」って思うかもしれないが

俺自身が感じたことを書いてみる。

創価を貶めたり法華講を持ち上げたりすることなく

素直な感想を書いてみるので、学会員の皆さんもよければ参考にして欲しい。

まず最初に下世話な話だが「お金」にまつわることだが

法華講には「講費」というのがあり毎月講費を収めるらしい。

金額は聖教新聞1ヶ月分の半分くらいが俺の講の講費だ。

といっても、特に強制的に徴収されるわけでもないし

聖教のように銀行引き落としでもないし

「講費を払ってください」と言われるわけでもないので払わない人もいると思う。

誰が払っていて誰が払っていないかは、上の人しか分からない。

因みに、俺は払っている。その理由は支部登山の折には

その講費から大御本尊へのご供養もされるということなので

むしろ喜んで払っている。

機関紙(新聞)は1部100円くらいらしい。月2回くらいなのか?

こちらは購読していないのでよくわからない。

おそらく法華講の活動家さんは複数購読してると思う

(いつも講頭さんがくれるので)

月2とすると10部とると聖教新聞の1ヶ月分計算だ。

あとはご供養は随時・各自ご自由にといった感じで

創価の言うような「むしり取られる感」というのは全くない。

最低一口、10、000円なんていう決まりもない。

自分の好きなときに好きなだけでいいので

納得感もあるし、ご供養のあとも心から清々しい気持ちにはなる。

因みに、塔婆供養のご供養は他宗に比べると非常に安い。

嫁の実家の曹洞宗の塔婆供養は正宗の2.5倍の金額である。

創価の場合は聖教が2000円×12ヶ月で24000円

財務を一口やったとして、年間最低で34000円かかるが

法華講は、講費と新聞それに年3回塔婆供養をしても

まだ創価の最低年間必要経費によりも安い。

寺は金ばかりかかる。という創価活動家の説明はウソなのは確かである。

次に会合等だが、月に1回の「お講」がメインのようだ。

創価で言うところの「座談会」みたいなものか。

内容は以前書いたが勤行してご住職の講話でおしまい。

時間は1時間から1時間半位(そのうち30分くらいは勤行)

当たり前のことだが、一講員の家に集まって会合したりしない。

何するにせよ必ずお寺でやる。

「お講」以外に班?ごとに「座談会」もやっているがそれもお寺でやる。

在家の家など寺院以外の場所で勝手に会合を開催させたから

在家信者の寺離れを促し

創価顕正会など出現を許したという

反省を元にそうしているかな?と推測している。

そして講員さんが御書講義をすることはない。

御書は読むが講義されるのはご住職でこのあたりはキッチリしている。

また、お寺は朝から晩まで鍵は開いていて誰でもいつでも入れる。

創価の活動家が忍び込もうと思えばいつでも忍び込まる。

創価の会館みたいに何もないときは門が閉ざされていたり

入館時の手荷物検査もない。

そのへんは創価よりもかなり自由度は高い。

折伏も目標を立ててやってるが、

創価の選挙活動みたいに毎日報告とか

友人台帳の提出とかそんな感じのものはないようだ。

まぁゆるいといえばゆるい。

もちろん真剣にやってるのだろうし、

活動家さんはもっと厳しくやっているのかもしれないが

それほどプレッシャーがかかるわけではない。

人間関係のことを言うと創価ほど人間関係が濃くはない。

その理由は、創価ほどいつもいつも会合があるわけじゃないし

講員さんの家で会合があるわけでもないので

年がら年中顔を付き合わせていないからだと思う。

といっても、お寺で会えば普通に誰にでも挨拶するし

ご住職や執事さんも声を掛けてくれるし

同じ班の知った顔の人とは普通に談笑もするので

創価の濃い人間関係と比較すれば「冷たい」と感じる人もいると思うだろうが

俺は特に法華講員さんが冷たいとか思うことはない。

なんだろうね。これが普通。

またこれくらいの距離感の方がいいと感じる。

創価組織にいるとどうしてもその濃い関係が故に

自分と気がわない、最悪嫌いな人間とも付き合わざるを得ないが

法華講員の距離感ならば、気が合わない人とは挨拶程度で済むし

そもそも「嫌い」になるほど相手と深くならないので

余計な同志誹謗をしなくて済む(笑)

そして1番創価法華講の違いを感じるのは

法華講創価と比べると個人主義・・・

個人主義という言い方が適切かどうかは分からないが

創価程構ってくれない。どちらかというと放置プレイである。

あ、勿論完全放置といわけではなく

俺の母のところに来てくれたり班長さんとかいろいろやってくれるが

なんだろうね。創価みたいにひつこくないというか

頻繁にやってきたり連絡してきたりしない。

あくまでも自分自身が自分の意思でお寺に参詣する。

かっこいい言い方をすれば「自分自身の求道心」が全てだ。

誰かに言われたりするのでなく、一人一人が仏法を御本仏を求めていく。

お講もご供養も強制されないし、向かうから言ってこない。

創価が「組織」としての活動が基軸なのに対して

法華講はあくまでも個人の信心が基軸という印象だ。

多分だから法華講創価みたいに急激に大きくならないだろう。

だけど、信心の軸みたいなものは創価よりは強固な気がする。

なんといっても、自分で決めていかないといつの間にか淘汰されてしまう。

それが「冷たい」とか「酷い」と思う人もいるだろうが

大聖人仏法とは一人の信仰者として、

一人の人間として自立することを目的としているのだから

そう言う意味では法華講というのは理にかなっていると思う。

また、俺的にはそうした信仰の方が性に合っている。

みんなでワイワイ仲良く同じことをするのも悪くないが

人は悩みや苦しみの度合いが全く違う。

宿業という言葉をあえて使うならば、その宿業の深さは違う。

そうであるならば、皆が同じことをするのは理にかなわない。

なんの悩みもない人と苦悩に沈んでいる人とでは

自ずとなすべきことは違ってくるのは当たり前の話である。

人より貧乏ならば人より働く。

金持ちと同じように金を使っていたら人生破綻する。

世法ですら当たり前のことである。

自分でやるべきことを決めて、決めたことを自分で行う。

信心もしかりだ。

そう言う意味では創価より法華講の方が

より自主性が求められる組織だと思う。


にほんブログ村