創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価が法華講より自由なところを探してみた。

創価の連中は、宗門(法華講)がいかにも

僧侶に支配されて不自由な組織?のように言っているが

昨日のブログでも書いたが、正宗と創価を比べると

正宗(法華講)の方が、創価よりも圧倒的に自由であることがわかった。

お金は創価よりかからない。

お寺には非常識な時間でない限りいつでも誰でも入れる。

坊主が威張っている?いや、威張られるほどご僧侶と接触しない。

選挙も自分の好きな政党や候補に投票できる。

実際に正宗に戻ってみると、創価時代の方が支配されて不自由だったと思う。

おそらく多くの元創価法華講さんはそう思ってのではないだろうか。

それでも、一度正宗にいき再度創価に戻ってくる人は

異口同音に「正宗は冷たい。つまらない」と言う。

そこで、創価が正宗(法華講)より自由なところを探しみた。

そんなところあるのかいな?と思ったが、ありました。

それは「在家が在家に指導をすることができる」というところだ。

昨日も書いたが法華講では講頭さんすら御書講義はしない。

御書を講義するのはご僧侶だけである。

しかし、創価は破門前から当然今に至るまで

幹部という在家が会員という在家に対して

御書を講義し信心の指導をするわけだから

この部分に関しては、正宗(法華講)よりは、かなり自由である。

おそらく、出戻り学会員さんは正宗のそのような部分が不満なのだろう。

自分で御書講義したり、皆の前で活動報告して賞賛されたり

他の学会員に指導してありがたがられたり

そういうことが正宗(法華講)ではできないから

「つまらない」「冷たい」「坊主が偉そう」とかいうのだろう。

在家同士が階級を設けて、在家同士が指導したりされたり

それが民衆仏法?

確かに在家は民衆だけど、それだと「仏法」ではないね。

幹部達は常に自分より役職が上の幹部に指導を受けて

「間違いない」ようにするものらしいが

それは結局最終的には大作センセが終点だ。

その大作センセとはいえ、相伝もなければ僧侶としての修行も積んでいない。

いや、大聖人自身が相伝もなく僧侶でもないと言うならばともかく

大聖人は相伝も受け僧侶としても修行もされている(外用面においては)

その大聖人の仏法をただの凡夫の在家である大作センセが正しく教えられる道理はない。

大作センセの信心が間違えばそれを正す人がいない。

それは結局創価の信心が間違えることになり

会員全員道連れになる。

今の創価が正しくそうなっているように。

魂の独立。なんて格好のいい言葉を使っても

ようするに大作センセは宗門にとやかく言われたくなかった

自由気ままに好き放題したかった。

それが本音だろう。

そうでなければ大御本尊を捨てることを選択しなかったはずだ。

信心で一番大切なところを、自由に勝手にできる。

だからネットでもリアルでも、創価活動家の言うことには整合性がない。

唯一、統一しているのは「池田先生は素晴しい」

これだけだ(笑)

それが創価が正宗(法華講)より自由なところである。

それを「自由」ととるか

「我見」ととるか

それは各人の考え方次第だが。


にほんブログ村