ただいま絶賛連載中の「新・人間革命」はいよいよ創価の破門劇が書かれている。
言いたい放題・書きたい放題である。
オツムの弱々しい創価活動家・幹部達は、この大作センセのお話をもって
創価は正しい。宗門は悪。なんて決めつけたがるが
一応、世間一般的な常識を教えてあげると
「真実」とは「事実」ではない。ましてや「正義」でない。
「事実」とは客観的に実際に起こった事項だ。
故に「事実」には善も悪もなくただの事象以下でも以上でもない。
この事実をもとに導き出されたのがいわゆる「真実」というものである。
平たく言うと「真実」というのは、主観的なものだということだ。
つまり、人間革命で書かれていることは「真実」であることは間違いないのだが
それはあくまでも大作センセから見た「真実」であって客観的真実と呼ぶには程遠い「真実」なのである。
例えば今回の章の中に、いわゆる11・16スピーチに対して次のような記述がある。
※伸一のスピーチは、世界宗教へと飛躍するための布教の在り方、宗教運動の進め方に論及したものであった。
実際のその時の大作センセの問題の発言はこうだ。
※猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。
さらにこの11・16スピーチの前に平成2年6月には、
※坊さんだから権威があるのか。坊さんだからといって威張っているが、とんでもないことだ、坊さんが権力で私達を押さえようとした時は、力を合わせて戦おう。坊さんは皆にどれだけ献身したか、していない(同六月十二日・婦人部総会)
※金ばかり取って、少欲知足どころか、大欲傲慢じゃないか。在家を励ますどころか責める、いじめる、嫌な思いをさせるような人に、我々はなめられてはならない。秋谷はびくびくして、顔色ばかりうかがって、だから宗門からなめられるのだ。お寺のことで何かあったら、私といっしょに立ち上がりましょうよ(同六月二十日・六月度幹部会)
というスピーチもしている。これが「事実」である。
これは俺の中の真実では、「宗門を批判している」と思うが
大作センセの真実は「世界宗教へと飛躍するための布教の在り方、宗教運動の進め方に論及したもの」らしい。
俺が大作センセの真実をそのまま受け取り事実と照合すると
世界宗教に飛躍するためには宗門は不要。大作センセにやることに文句を言うな。という真実に行きつく。
これだけではない。
宗門は檀徒作りを画策した。なんていってるが元々学会員って言うのは正宗の檀徒だろう。
また供養をむしり取った。なんていっているけどその供養は端から学会のモノではないはずだ。
何よりも酷い下りは
※これでは、もはや、日蓮大聖人の仏法ではない。日興上人の御精神は途絶え、富士の清流は、悲しいかな濁流と化してしまった。
である。
これは、もはや大作センセ自身の真実(妄想)をあたかも「事実」のようにねつ造してるに過ぎない。
富士の清流が濁流と化した客観的事実などどこにも存在しないのにそれを事実であるかのごとくでっち上げているのだ。
創価の諸君が大作センセの妄想を真実として受け止めそれを主張するのは構わないが
事実でないものを事実であるかの如く発言し
また、大作センセの真実(妄想)が大聖人仏法の正義であるかの如く主張するのは許されない。
今の創価に大作センセの正義はあったとしても、大聖人仏法の正義はない。
もしそれを主張したいのであれば大作センセの真実(妄想)ではなく
大聖人の文証と理証をもって主張すべきである。
真実とは学会員が100人いれば100個。法華講員が100人いればやっぱり100個の真実がある。
それらは、個々においては正義かもしれんが全てが大聖人仏法の正義ではないのである。
究極的には大聖人仏法の正義は「ひとつ」しかない。
それは。弘安二年の戒壇大御本尊だ。
日興門流であればそれを否定できないだろう。
創価はその「大御本尊」を捨てたのである。これは事実である。
この事実からどんな真実を導き出すか?
それこそ、大聖人から一人一人が試されているのである。
大作センセの真実を信じるのでなく
自分自身の真実を導き出すことが大切なんだよ。