久しぶりに、創価のランおばちゃんがブログを更新した。
極悪と戦うどころか当ブログにコメントをよこし、戦闘不能状態で罵詈雑言を吐いて逃げ帰ってから少し大人しくなったようだが
相変わらずの無知をさらけ出して大いに嗤える記事をかいていた。
題して「信心に僧俗の差別はない」だそうだ(笑)
で、ランちゃんが言うのには、破門時の宗門の文書の中に
□「僧俗には大聖人の仏法に即した本来的な差別が存するのは当然」
と書いてあるから宗門は間違っている。と言いたらしい。
いやいや、実に創価ノータリン婦人部さん言いそうなことで嗤った。
当時の宗門からの他の文書には
□御本尊を拝する姿においては、一応平等であります」(お尋ね文書)
□『化儀抄』でいう信心の意味するところは、妙法の御本尊に向かって本門の題目を唱えるところ、すなわち九界即仏界という本因妙成仏の義をいうのでありまして、そこには当然僧俗の差別はなく、平等であり(宗務院よりの指摘)
と、ランちゃんのいう所の
■成仏には、年齢、立場、性別、信心歴などは全く関係ない。
と同じことを宗門も言っている。
つまりランちゃんに言われなくてもこんなことは「当たり前」のことなである。
それを何を鬼の首でもとった如く大騒ぎでいてるんだろね(嗤)
ランちゃんはそれを知ってから知らぬかわからんが、
こうした宗門の見解を隠ぺいしておいて宗門に対し
■大聖人のご精神がまったく理解できていない証拠である。
などと偉そうに言っているわけだ。なんとも姑息でいやらしい。
大聖人の仏法を全くできていないのは「オマエ」だよ。オ・マ・エ(笑)
大聖人仏法においては、いや仏法においては能所の違いは明確にあるのである。
違いがなければ、「仏宝」も「僧宝」もないじゃないか。
「南無三」といわれるように仏法とは「三宝帰依」が基本なのである。
差別がないなら、大聖人様と創価脳のイカレタBBAと同じなんかい。
寝言は死んでからにしてほしい。
大聖人様が僧俗に全くの差別がないというならば「新池御書」の
◆無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず
◆法をこころえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし
等の御文をどう理解するのだ。大聖人様も大聖人の精神を全く理解できていない証拠か?(嗤)
こうした「能所」の違いも分からずに宗門攻撃をしてくるところ。全く1ミリも成長していない。
さらに、ランちゃんは何をトチ狂ったのか、日興上人の「佐渡国法華講衆御返事」の
◆このほうもんは、しでしをただして、ほとけになり候、しでしだにも、ちがい候へば、おなじほっけぇを、たもち、まいらせて、候へども・むけんぢごくにおち候なり
の御文を持ち出してきたというから噴飯モノである。
なんでも自分の都合のよさそうな文を一応利用するだけという研鑽精神の欠片もない厚顔無恥さは創価婦人部の鏡だな。
そもそも
◆日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之これを相伝す(日興跡条条事)
と言われている大御本尊を捨て置いて、よくも恥かしげもなく日興上人の御文を引用できるもんだ。
しかも、「佐渡国法華講衆御返事」なんて創価の御書にはないだろ?
この日興上人の御文はランちゃんをはじめとする創価活動家連中には、
な~んにも関係のない御文なのである。
部外者が何を勝手に日興上人を語っているのだか。身の程を知りなさいよ。
たまたまネットで見かけたからって盛りのついた犬みたいにすぐにとびつくんじゃないよ。
で、これで何がいいたいの?まさかこの御文の「師」は大作センセとか言ってないよね。
在家同士での師弟関係なんてないんだよ。
そんな勝手なことを言っているのは、大作センセと浅井センセくらいだろ。
それが通るなら顕正会員も成仏するんかい!
在家同士ってのは同行の知識つまり善知識だから
◆善知識と申すは一向師にもあらず一向弟子にもあらずある事なり(開目抄上)
と言われているように師弟子という関係じゃないんだよ。
在家同士の師弟関係なんてもんを信仰の根本にするから狂うのさ。
じゃあ大聖人仏法におけるランちゃんの「師」ってだれさ?
そこをキチンと正さないと成仏きないよ。
自分で日興上人の御文を引用したんでしょ?(笑)
無教学婦人部のランちゃんに最後に、第九世日有上人の「化儀抄」を教えてあげるよ。
◇貴賎道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」
分かりまちたか?
日興上人いう所の「師弟子を正す」というのは、こういうことを言うんでちゅよ(嗤)