創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日興遺誡置文の研鑽番外編・池田指導を破す②

今回も『日興遺誡置文』を利用した池田大作のインチキ指導を嗤いながら破折していきたいと思います。(以下黒太字は平成4年の池田指導です)

一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。

日顕宗では、御書の一文一句たりとも「心肝に染めて」いない。また大聖人、日興上人への「師弟の道」、宗門の先師への「師弟の道」も完全に踏みにじっている。「師敵対」そのものである。」

この指導は完全に何の根拠もない池田の雑言にすぎない。正宗が御書を心肝に染めていないという根拠がまるでなく「師弟の道」とか訳のわからないことを言っているだけの話である。そもそもこの条項は御書を心肝に染める為には師弟相対で御書を学ぶべきことを言われている。大聖人仏法の法門における極理とは唯受一人血脈相承によって師伝されている。故に御当代・ご歴代上人のご指南・会通によってこそ極理を知り御書を心肝に染めることが可能になる。そもそも池田が御書を学んだのは戸田会長だろう。では戸田会長は誰から学んだかと言えば日寛上人をはじめてとする法主上人から学んだのである。戸田会長は「教学は日寛上人の時代に帰れ」と常々と言っていたのだろう?その日寛上人の三大秘法の開合を否定した池田創価こそ戸田会長に対する「師敵対」である。

一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。

日顕宗のだれが、正法についての、まじめな論議や講説を「好んで」いるであろうか。弘教もせず、仏法を語り合うこともない、醜い「食法餓鬼」の集団。それが現宗門であり、日興上人の御遺誡に、完全に違背している。

池田に逆に聞きたいが正宗の誰が真面目な議論や講説を「嫌って」いたのだね?日顕上人は多くの書籍を残している。その教学の内容は池田の説法より遥かに次元が高い事は書籍を読めばわかる。会合の席でふざけて「キンマ〇コ」などと発言している人間のほうがよほど不真面目であろう。それにな弘教等の学会活動をするのは「自分の権利」だと宣っていたのは池田自身じゃないか。ご僧侶にはご僧侶の弘教があるしご僧侶も折伏されている。池田自身は一体何世帯の個人折伏をしたのだね?他人の信心にイチャモン付けるならまずは自分で折伏するが先である。

一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。

宗門のどこに「不惜身命」の弘教があるだろうか。それどころか遊蕩三昧にふけり、あまつさえ学会を破壊し、広宣流布を断絶させようとしている。正法の敵である。日興上人の敵である。

宗門僧俗の「不惜身命」の歴史を知らないのか?全く池田の勉強不足には呆れるばかりだ。遊蕩三昧?法主上人に置かれては毎日丑寅勤行で広宣流布を祈っておられる。聞くところによると池田は一度も丑寅勤行に参加したことがないそうではないか。遊蕩三昧の証拠は?シアトルも芸者写真も全部創価のデッチ上げだったじゃないか。学会を破壊した?魂の独立したのだろう。全く破壊などしていなし謗法・池田創価を破門しても広宣流布は断絶などしないのである。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。

「身軽法重の行者」とは、学会員である。学会員以外にだれがあるであろうか。その尊き学会員を蔑視し、陥れようとする悪侶の罪は、提婆達多よりも、はるかに重いのである。

戒壇大御本尊を「ただのモノ」扱いし「いつか無くなってしまう」などという発言をしている池田創価のどこが「身軽法重の行者」なのかね?「身軽法重」の意味を池田は知っているのか?戒壇大御本尊を捨てた学会員は「身軽法重の行者」どころか大謗法者だ。大謗法者を破折するご僧侶方の功徳は釈迦仏より遥かに大きいのである。

一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事。

離脱した僧侶の証言からも明らかなように、宗門は、異常なほどに上下の差別が厳しい。地位が下であったり、後輩であっても、信心、実践に優れた人を尊敬せよという御遺誡とは、最もかけ離れた世界である。

「離脱した僧侶」の浮言をそのまま会員に話すとはとても指導者とは思えない。ならば創価を脱会した池田の側近は証言している池田の悪行も全部真実ということを認めるのか?普段から「師弟の道は峻厳」だとか言っているくせに、その峻厳な師弟の道に耐えられなくて脱落した元正宗僧侶の浮言を信用するとは池田自身の「師弟」とはその程度だということだ。語るに落ちるとは池田のこういう指導のことをいうのである。

一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。

日興上人は、従ってはならない法主が出現することを危惧されていたと拝される。ゆえに私どもが「己義」の日顕に従わず、厳しく、その謗法を呵責していることこそ、日興上人の御遺誡を厳守している実践なのである。

本条項は何度も言うように法主上人を「呵責してよい」などと一言も書かれていない。「用いない」と日興上人は言われているのである。それを「呵責してよい」などと解釈し会員を煽る池田こそ「己義」を構えているのである。法主上人の言葉すら「己義」を構えたら用いないのである。単なる信徒である池田の「己義」こそ用いないだけでなく呵責すべきなのである。そもそも日顕上人が己義など構えたことはない。いまだに創価民は日顕上人の己義とやらを論証できていない。池田の方が己義だから日顕上人のご指南を己義だと思っているだけである。

一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。

これは、第十七条と対になっている。いずれも“仏法に相違すれば”とある。すなわち、正邪の判定は、権威(貫首)によるのでもなく、多数(衆議)に従うのでもない。どこまでも、仏法の「正義」にかなうか、否かによるのであると。そのための「基準」は、大聖人の「御金言」であることは言うまでもない。御書根本の正しい多数意見をも「貫首」の権威で砕こうとしている日顕は、この御遺誡に完全に違背している。

もう、ここまでくると日興上人の御遺誡なんて全く無視である。この条項で「基準は大聖人の御金言である」などと、どこにも書かれていない。【貫首之を摧く可き事】と明確に時の法主上人が裁断を下すと日興上人は言われていいる。さらには法主上人は仏法相違のヤカラを摧くつまり「呵責してよい」のである。いやむしろ「呵責しなくてはならない」というのは日興上人の御遺誡である。池田も一端の大聖人の仏法指導者を名乗るならせめて御文の通解くらい正確にできるようになってもらいたいものだ。

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