創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価を批判しても地獄なんて落ちません(ノンさんのコメントへ)

先日、ノンさんからのコメントの中で、

ネットで創価批判を書いて無限地獄に堕ちました。今地獄真っ最中です。

私がネットで批判したのは学会組織。日蓮大聖人の仏法を批判したことないです。

それで地獄に堕ちた、と言うことはそれだけのせいではないけどやっぱり創価が間違ってないからじゃないのかなぁ?

との発言があったので今日はこのコメントについての話をしたいと思う。

結論から言うと、創価批判で地獄に落ちることなど万に一つもない

これは「創価を辞めると罰が出る」的な話と同じで、それを鵜呑みにしてしまう会員さんのためにも言っておく。

創価を批判しようと辞めようと、罰も出ないし地獄にも落ちない。

なぜならば、創価には「罰」を出すような「力」などどこにもないからだ。

「罰」を出す力がないというのは逆に言えば「功徳」を出す力もないということである。

もしも、「罰」や「功徳」を出すとしたらそれは一体どこから出てくるのか?

創価には、「仏宝」が存在しない。「仏宝」が存在しないということは当然「法宝」も「僧宝」も存在しない。

三宝」のなにひとつも存在しない創価で一体「罰」や「功徳」が出るというのならそれは仏法ではない。

なにやら「創価学会仏」なる架空の仏が」いるらしいが

「仏」が架空であれば、その仏の用も「架空」であるのは仏法の常識である。

要は与えて言えばそんな組織を批判しようと賞賛しようと「何も起こらない」のである。

公明党を支援するのは時間の浪費。財務はただの浪費。

そんなことをしてもしなくても、成仏になんの関係もない。

創価を批判すると地獄に落ちる」なんていうのは文証も理証もない思い込みと洗脳の産物だ。

ノンさんが言われている

それで地獄に堕ちた、と言うことはそれだけのせいではないけどやっぱり創価が間違ってないからじゃないのかなぁ?

というのは単なる現証面だけを捉えた考え方であってそこには文理が存在しない。

つまりは単なる偶然の結果論でしかない。

◆但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。(唱法華題目抄)

と御聖訓にあるように「正義」を証明するにはまずは文理があってこそである。

現証(利根・通力)をもって正邪を判断してはいけない。

内容は知らないが本人の弁を借りれば、ではなぜノンさんは地獄を味わったのか?

これに二通り考えられる。

ひとつはノンさん自身の謗法。これは創価批判の方ではなく大御本尊(大聖人)に対する謗法があったから。

ノンさん自身は「日蓮大聖人の仏法を批判したことないです」とのことだが

本当にそうなのか?これをチェックしてもらいたい。

まず「大聖人仏法」と言われているが、大聖人仏法とは大聖人をご本仏と信じる仏法をいう。

この大聖人仏法を信仰しているのは、昔も今も日興門流以外にはない。

この日興門流の信仰の根本は、これまた昔も今も

「本門戒壇の大御本尊」と「唯受一人血脈」にほかならない。

この二つを捨てた創価は日興門流とは言えない。ということは日蓮仏法ではない。

それを放置して組織批判だけしていても意味はない。

大聖人仏法を批判はしていなかったとしても、創価が大御本尊を捨てたことを受け入れているとうのは

大聖人仏法を捨てたのと同じことになる。故に

◆善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし(開目抄下)

との御聖訓のとおり苦しんでいるというのが一つ。

そしてもうひとつはそれこそノンさんが言っていた転重軽受。即ち「護法の功徳力」ということだろう。

◆此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり(佐渡御書)

とあるように、ノンさんが創価の謗法を強く責めたので「護法の功徳力」のよって現在苦しんでいる。

俺的には今のノンさんの苦しみは「護法の功徳力」だと感じている。

俺も創価組織を追放されたときは本当に一般の人では味わえないくらいの経済苦で「無間地獄」のような毎日だった。

そんな中、必死で学会活動を頑張ってきたが組織を追われる。

何度も自分の信心が間違っているか?と自問自答したり、御本尊に毎日訊いていた。

いっそのこと信心なんてやめてやる。と思った事も何度もある。

あれから四半世紀。当時では想像もつかないような結果がでた。

様々な奇跡的な功徳をご本尊からいただいたのは全て創価の間違いを破折しだしてからだ。

ともあれ、どちらにしても全ては御書の通りで利根・通力の類ではない。

なのでノンさんには「やっぱり創価が正しい」なんて思い違いをして欲しくない。

ご自分で、大御本尊(大聖人)に対する不信があったと感じれば素直に大御本尊を信じればいいし

そんな「不信」など無かったのであれば、いまの苦難は間違いなく「護法の功徳力」であるからここでやめてはいけない。

大御本尊を捨てた謗法創価を批判して苦しい目にあっているのなら、

まさにノンさんは法華経の行者ではないか。御書に書いてあるとおりだ。

この苦難を乗り越えれば素晴らしい人生が待っているのは間違いない。

それを、ここで再び謗法創価の軍門に下ってしまえば本当の無間地獄へ誘われてしまう。

いまがノンさんにとって天下分け目の戦いなんじゃないかと感じる。

◆今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ是こそ勢多を渡せし所よ名を揚るか名をくだすかなり、人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり、釈迦多宝十方の仏来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし(弥三郎殿御返事)


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