創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

真実の覚醒の時

創価のMC・詐欺に気づき創価から離れることを

ネットでは「覚醒」と呼ぶ人達がいるようで

「覚醒」とは言い得て妙でなかなかいい表現だと思う。

この覚醒者の皆さんは大きく分けて二通りのよう。

一つは、俺のように「創価はやめても信心はやめない」タイプと

もう一つは「創価と一緒に信心もやめる」というタイプ。

ネット上でも、またリアルにおいてても

どちらかというと「創価と一緒に信心もやめる」

という道を選択する覚醒者さんの方が多数派だと感じる。

今日、そんな多数派の覚醒者の一人と少し話したんだけど

その彼が言うには俺のように「創価はやめても信心を続ける」タイプは

まだ「完全に覚醒していない」状態だそうだ。

ネットなどにも似たような事をいう覚醒者の人がいるが

そう言われれば、お言葉を返すようでだが

むしろ「創価も信心もやめてしまう」方が

まだ創価に騙されて続けいるんだなぁって感じてしまうんだよね。

まぁ、創価をヤメたことはいいことなんでけど

信心まで止めてしまう。もったいないあぁ

信心を止めるだかならまだしも

大聖人仏法まで創価の一部として批判する人(今日の友人がそうだった)を見ると、

創価の本当の部分の騙しに気づいていない。と思うし

これが創価の詐欺の二次被害だと思う。

そう思うとやはり創価学会という存在は「絶対悪」だと思うね。

創価と一緒に信心もやめて、

さらに大聖人仏法も否定する醒者さんが異口同音に言うには、

「紙に字を書いたもの(本尊)に祈ったところで功徳などあるわけない」

「紙に字を書いたもの(本尊)など捨てても罰なんて当たらない」

って事なんだけど、言ってることは間違っていない。

創価の本尊なんて、まさに「紙に字をコピー」した「モノ」でしかなく

そんな「コピー用紙」にいくら祈ったところで功徳なんて出ないし

そんな「コピー用紙」なんていつゴミ箱に捨てようが罰なんてでない。

そんなものが出るほうがおかしい。

それを「功徳」だの「罰」だのと言って

会員から金や時間、さらには友人や恋人まで奪う創価

「詐欺団体」であることは間違いない。

でもね、創価が「極悪」であるのは

こうした詐欺行為をするからではなんだ。

「詐欺行為」なんての「悪党」レベルの話で「極悪」じゃぁない。

創価の悪の根本は「詐欺行為」でなく

「謗法行為」にある。

現役の会員のみならず、

覚醒した元会員さんにも「謗法行為」をさせる。

これこそが創価が「極悪」である所以だ。

創価の詐欺で奪い取られるモノよりも

創価にさせられた謗法で失うモノの大きい。

創価は詐欺団体」これはすぐに看破できるだろう。

でも「創価は謗法団体」って気づくのなかなか難儀である。

そこに気がつくのが「覚醒」というのではないかと思う。

創価の本尊で「功徳」が出なかったのは、

本尊のせいでなく創価の信心のせい。

創価の本尊を捨てても罰がでないのは

本尊のせいでなく創価の信心のせい。

創価のいう信心が間違っているから

創価の本尊は功徳も罰もでない「ただのコピー用紙」にしかならないわけだ。

つまり、今日の友人のようなタイプの覚醒者さんは

創価の詐欺には気づいたけど創価の謗法には気がつかないままでいるわけで

ザックリ言うと、創価をやめてなお創価に騙され続けている。と感じる。

創価で教えてもらった信心とは大聖人の仏法ではない」

そこに気がつかないまま

創価の教え」=「大聖人仏法」と信じ込んじゃっている。

だから、「アンチ創価」=「アンチ日蓮」になっちゃう。

そういう覚醒者さんは多いと思う。

いつも書いているが正しい信心(大本尊に信をとる)をすれば

創価の本尊であっても「功徳」も「罰」もでる。

逆に正宗の本尊であっても間違った信心なら

覚醒者さんたちがいうように「紙に字をコピーしただけのモノ」でしかない。

日顕法主憎さに大聖人を捨ててしまった創価

創価憎さに大聖人を捨ててしまう覚醒者さん達。

こんな言い方をすると腹がたつと思うが

仏法の立場で見てみると、「同じ」カテゴリーなんだよな。

本人は創価をやめて覚醒したと思っているので

結果は創価と同じカテゴリー。

いまだに「創価宗」「池田教」から

心は抜け出せてはいないように見える。

創価をやめることで「詐欺」から身を守り

「詐欺」の片棒を担ぐことはなくなったのだから

それはそれで非常にいいことだし喜ばしいことなんだけど

度が過ぎて「大聖人」まで批判・非難の対象にしてしまうと

創価と同じ「謗法」になり「謗法」の片棒を担ぐことになると思う。

まぁ、「もう信心は懲り懲り」って気持ちもよくわかる。

俺の男子部時代に組織を追放された時に

心底「組織信心」なんて真っ平ゴメン。と思ったし。

だから、もったいないけど「無理」に信心を続けることもないだろう。

いやいや勤行・唱題をしたところで何の意味もないし。

だた「大聖人批判」まで行ってしまうのは賛成できない。

「もったいない」を通り越してしまうから。

創価に言われるまま、色々な活動をしたきただろうけど

御本尊にあげた題目だけは創価関係なく個人の信心だ。

それが実であれ不実であれその題目の分は福運が積まれたことは間違いない。

それを「大聖人批判」で消してしまうどころがマイナスにしてしまうのは馬鹿らしいと思う。

ていうか、創価をやめた今「大聖人批判」をする意味もないし

「大聖人の批判」をしたところで覚醒者が増える事もない。

だからいたずらに創価同様の謗法を犯す必要もないんじゃないか?

創価からの覚醒者さんの多くは

「まだ本当の日蓮仏法を試したことのない人達」なんだよ。

今後、本当の大聖人仏法を試すか試さないかはわからない。

また、大聖人仏法を信仰しようと批判しようと

それは個人の自由であることは言うまでもないが

どちらにしても「創価の教え」から離れて欲しいと思う。

日蓮大聖人」と「創価宗」「池田教」は無関係である。と認識して欲しい。

その時が真実の覚醒の時なんじゃないだろうか。

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