創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価を詐欺だという理由

創価に騙された」

創価から離れた多くの人々がそう口にする。

確かに創価活動家をしていると多くのものを搾取される。

時間・金は勿論のこと

時には、友人や家族そして自身の信用とか

そうした有形無形のものを搾取される。

そうしたものを搾取された元創価の人々は

創価を「詐欺」と呼ぶ。

俺もまたそんな人たちと同様に

創価に金を使い、時間を費やしてきた。

でも、俺はそのようなことを

「詐欺」とも思わないし

「騙された」とも思わない。

そうしたものを搾取するのは何も創価に限らない。

宗教団体全体に言えることだし

宗教団体に限らず大多数の人間は

時間や金を搾取される側にいる。

誰かに何かを搾取されながら人間は生きている。

それが人生であるのだから

いちいち搾取した側を「詐欺」と呼んでも意味はない。

そう、金や時間であれば。

俺が創価に「騙されて搾取」されたものは

金とか時間ではなく「信心」である。

そしてそれは今もなお続いている。

創価から覚醒した。と自称する多くの人は

創価をやめると同時に大聖人の仏法も捨てる。

いや信仰そのものを捨てる。

それが覚醒だと言わんとばかりに。

そう覚醒者さん達の多くは創価に「信心」を奪われてしまうのだ。

創価から離れた人たちだけではない。

いまの創価学会員もまた、「大御本尊への信」という

金や時間などに替えられない一番大切なものを

自分たちが気づかないうちに創価から奪われた。

創価をやめて、大御本尊を軽賤する覚醒者の方々も

創価をやめず、大御本尊を軽賤する活動家の面々も

「大御本尊への信」を創価に騙され奪われた人達に変わりない。

覚醒者の方々の方が金や時間という

余計なものを奪われないだけ幸せではあるが

「正法」から、「ご本仏」から離れ

それを屁とも思わないし、ご本仏から離れたことを正当化する。

という意味では五十歩百歩な感は否めない。

ご本仏から離れる。という事は何を意味するかと言えば

創価をやめて無宗教になって方に対して例えるとしたら

折角の最高の保険を途中解約しちゃった。

そんな感じだろうか。

ともあれ、今創価も昔創価もひっくるめて

創価は「ご本仏への信心」を全ての人々から奪うのある。

しかも「ご本仏」を餌にして人を集め、

「ご本仏への信」を奪ってから、金と時間だけを搾取するのが創価流だ。

そして今も「学会は大聖人の仏法を行じている」

と騙されて搾取され続けている会員さんが五万といる。

そこなんだよ。

おれが「創価は詐欺」と呼ぶのは。

他の枝葉末節のことなんてど~でもいいんだ。

大御本尊を捨てておきながら大聖人仏法などといって

大聖人仏法に関係のない選挙だの財務だの新聞啓蒙だの

会員から金と時間を搾取して

「功徳が出る」だって?バカ言うなよ。

ウソをついて金や時間を奪い取る。

それを「詐欺」といわずなんて呼ぶんだ。

俺も随分と創価に金と時間を使った

でも、俺はご本仏に金と時間を使ったと思っているから

そこは全然「騙された」とは思わないが今は違う。

何故なら創価は大御本尊を捨てたのだ。

「信心」という言葉を巧みに使い

仏法となんの関係もない創価学会という組織に対して

会員さん達の金と時間そして成仏(幸福)までも搾取しているのである。

本ブログの読者の蘭房さんのコメントにもあったが

人生の大半を創価に捧げてしまった方を見ると本当に切なくなる。

今の創価を否定することは自分の人生を否定することになる。

と思っている古い会員さんもたくさんいると思う。

自分自身の人生を否定するのが怖いから創価をやめない。

そういう思いも痛いほど分かる。

でも、俺は思うんだよ。

創価こそがそうした人たちの人生を否定したのだ。と

人生のほとんどを「大御本尊を信じて」生きてきた会員さん達に

「大御本尊を信受するな」とうのは

その人のそれまでの信仰つまり人生を否定したのと同じだよ。

創価をやめても、自分の人生を否定したことにならない。

むしろ、創価に残り大御本尊を捨てることの方が

自分自身を否定することになる。

「信心をすてる」「ご本仏を捨てる」ということは

自分の三世の人生を捨てることだと思う。

勇気を出して創価をやめて大御本尊への信を取り戻しませんか?

それがいままで創価に使ってきた金と時間を活かす唯一の方法です。

それが自分の三世の人生を取り戻す最善の方法です。

大丈夫。創価なんてなくても。

世間は思うほど冷たくないですよ。


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