先日の11月28日は、創価の「魂の独立記念日」とやらそうで(笑)
聖教新聞では相変わらず一方的に宗門を悪者に仕立てて
もはや当時を知らない会員をだまくらかす記事が掲載さていた。
(以下太字は聖教新聞より引用)
破門といっても、御書に基づく理由など何一つない。要するに、学会が信徒団体として宗門の権威に従っていないと決め付け、一方的に切り捨てただけである。全く人間抑圧、時代錯誤も甚だしい宗教悪そのものであった。
衣の権威”の鉄鎖から解き放たれた学会は仏法の人間主義の翼を広げ、世界宗教へと飛翔した。一方、日顕宗は衰退の坂を転げ落ちた。彼らこそ宗祖大聖人から厳しく“破門”されたことは明白である。 「魂の独立」から27年。我らは権威主義の宗教悪を責め抜きながら、大聖人直結の人間宗教の大道を朗らかに進みたい。
だそうだ(笑)まぁ何を言おうと勝手だろうが、魂の独立をした創価がその後にどうなったか?
大聖人の色心二法たる大御本尊を捨て、日寛上人のご指南を否定し、
大聖人仏法の基本の修行である勤行及びご観念文を変更し
財務と言う只の会費を供養と偽り、選挙を信心であるなどと騙り続けている。
日蓮直結などと言う己義を含めこれらの創価の所業の数々のたった一つであっても御書と符合しているところがあるのか?
それこそ御書に書いていないどころか大聖人仏法を悪用しているだけだろう。
な~にが宗教悪を責める。だ。法論のひとつも出来ないでコソコソと逃げまわるだけの活動家ばかりだろ。
「逃げるしかできない」活動家ばかりになったのは、創価が己義・邪義を連発してきたからだ。
さらに、ここ数年は執行部や公明党を批判したり、批判した人間と交流しただけで
会員を査問にかけ、活動停止や除名に追い込んでいるのはどこの組織だ。
会員を一方的に切り捨てる人間抑制の時代錯誤も甚だしい組織と言うのは
まさしく今の創価学会そのものである。
日蓮仏法を騙り、本尊もどきをばら撒き会員から金と時間を搾取し反抗すれば処分する。
それが、お前たち創価の言う「魂の独立」の結果なのである。
大御本尊から離れたものの成れの果ての姿なのである。
どんな詭弁を使おうと、どんな甘い言葉で誤魔化そうと
大聖人仏法を捨てたのは創価の方であるという事実は変えられない。
大御本尊を捨てて宗門を日顕宗と揶揄しながら、
いまだに、大御本尊を正宗の歴代法主が書写した本尊に題目あがているのも事実。
それなのに、日蓮直結だの御書だのと戯言を抜かすとは笑止千万だろう。
「魂の独立」というならば、もうお前たちの独自の本尊を使えよ。
いつまで日蓮正宗の本尊をコピってるんだ(藁)
マジでとっとと「独立」してくれないか?
お前たち創価には、大聖人も御書もなんの関係もないのである。
お前たち創価は、大聖人と無関係の門外漢なのである。
そして、それを望んだのは他でもない大作センセとゆかいな仲間たちだ。
彼らはそれは愉快であろう。
自分達の邪義をいくらいった所でご僧侶から咎められるわけでもない。
大御本尊へのご供養をそっくりそのまま自分達が搾取することができる。
なにもかも自分達の思い通りにできるんだから「宗門から独立」して嬉しいだろう。
しかし、それによって多くの純粋な会員達は無間大城に落ちていくのである。
上層部のように今世で贅の限りを尽くすことなく、だた搾取されたうえで無間地獄である。
要は創価の言う「魂の独立」とは、法華経に説かれている「五千起去」の事である。
■「この語を説きたもう時、会の中に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の五千人等ありて、即ち座より起ちて仏を礼して退けり。所以は如何。この輩は罪の根深重、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。かくの如き失あり。ここを以って住せず。世尊は黙然として制止したまわず。その時、世尊は舎利弗に告げたもう『我が今、この衆には枝葉なく、純に貞実なる者のみあり。舎利弗よかくの如き増上慢の人は退くもまた佳し』」(法華経・方便品第二)
大作センセを筆頭に、創価が増上慢を起こして大聖人の会座から立ち去った日。
それが、11・28「魂の独立記念日」なのである。