創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

何故創価教学は狂うのか?

梵我一如さんが「創価森」ブログの狂った御書解釈を紹介してくれていたので読んでみた。

まぁ完全に逝かれていますね。引用するのもアフォらしいのしないが何で創価民の教学は「狂学」になるのか?

実はその理由を多くの創価民が教えてくれている。(以下太字は他ブログからの引用)

鯛焼き支部長は、日蓮仏法をベースにした創価の教え」といい、

先日紹介した雅彦氏の最近のブログで、

もはや今の時代は情報がオープンになっている。御書は何処でも手に入る、ネット上でも読むことが出来る。僧侶や寺院に頼ること無く、存分に御書を研鑽できるのである。信徒一人一人が御書を根本にして日々の生活を充実させることが可能なのである。

と述べている。これらの考えこそが創価教学が狂う考え。いや創価狂学の根本と言った方がいいかも知れない。

この発想をしているうちは大聖人仏法の法門の正しい理解は到底できない。

前回、日興遺誡置文の

◆義道の落居無くして天台の学文す可からざる事

のご指南を引用したが、この御文は次の

◆当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。

のこの御文と二つでワンセットになっている。

「義道の落居」即ち法門への正しい理解をするためには、「御書を心肝に染める」ことと「極理を師伝」する事であると日興上人は言われている。以前も書いたが「御書」を始めとする文書に法門の全てが書いてある。とするのは顕本法華宗の掲げる「経巻相承」の邪義なのである。日興上人は「極理師伝」と明確にご指南されいる。ここでいう「極理」こそが「法体の理」すなわち法体(極)に関する法門(理)なのである。大聖人がご本仏であることも曼荼羅正意も戒壇大御本尊のことも「御書」には書いていない。なのに何故、大聖人を末法のご本仏と仰ぐことが出来るのかと言えば、大聖人がご本仏であるという「極理」を日興上人以下の御歴代が「師伝」してきたからである。雅彦氏も大聖人がご本仏であると主張しているがそれだって自分で御書を読んで気が付いたわけではあるまい。ところがこの「極理師伝」を否定し、もはや自分で御書を学べる。と勘違いする。これが多くの創価民の教学が狂う原因なのである。

昔、俺が初信の頃ある会合で男子部の幹部が「人間革命」の中の(以下太字は引用)

「若い革命家の『妙法への帰命』という理念は、具体的な実践でいうならば、希有(けう)の師への帰命、すなわち『戸田城聖への帰命』でなければならぬことを、彼は知ったのである。」

という部分を使って指導した、(有名な部分なので聞いたことある人も多いと思うが)

で、俺は「なんかそれはちょっと違う気がするんですが?」と言ったらその幹部曰く、

「妙法への帰命とは、理としては南無妙法蓮華経への帰命だが、事としては師匠である池田先生への帰命なんだよ」と。

ぶっちゃけ、納得感なかったのだが周囲の先輩活動家達は「なるほど。そう言う事なんですね」と感動したりしていた。

この空気が創価の中では蔓延している。オリジナルの解釈をすると感心される。

オリジナルと言っても「日蓮」とか「妙法」とかいう言葉を、「創価」「池田先生」「師弟」とかに置き換えただけだし、

そもそも「御書」をオリジナルで解釈することは「邪義」「我見」以外の何物でもない。

なのに、大作センセを筆頭にこうした「我見」の御書講義が尊ばれもてはやされるのが創価である。

そしてそうした「我見」「邪義」のことを、日蓮仏法をベースとした創価の教え」などと恥かしげもなく言ってしまうわけだ。

創価は宗門に対して「法主信仰」などと言ってくるが、オリジナルの御書講義を有難がってそれを信じている創価の方が「池田信仰」であり「幹部信仰」であり「自分信仰」なのである。

このように、日興上人のご指南に背き「極理師伝」を否定することは、大聖人仏法を否定することである。「極理師伝」を否定し「法体相承」を否定し、自分の独学で御書を学べるなどと思うのは増上慢の姿に外ならい。

◆経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂い我慢の心充満せん」文妙楽大師此の文の心を釈して云く「次の一行は道門増上慢の者を明す」文文の心は悪世末法の権教の諸の比丘我れ法を得たりと慢じて法華経を行ずるものの敵となるべしといふ事なり(唱法華題目抄)

また、そんなオリジナル(我見)の教学で戒壇大御本尊や唯受一人血脈を否定するヤカラは、

日蓮が弟子等の中になかなか法門しりたりげに候人人はあしく候げに候(上野殿御返事)

と大聖人に糾弾されるべきヤカラなのである。

こうかくと雅彦氏や鯛焼き君はツマラナイ反論をするかも知れないが、

「極理師伝」により「御書を心肝に染める」のが日興門流の「義道の落居」への方法論なのである。

彼等に限らず日興門流だという自覚があるのであれば日興上人のご指南を素直に受け入れ今後の教学の糧にすべきである。

日興門流ではない。とう人ならば大御本尊も日蓮大聖人も御書も君たちには何の関係もない。

キミ達は五老僧の末裔であり、門外漢である。

「門外漢」ごときが大御本尊に対してグズグズと能書きを垂れていないで

大御本尊に代わる「オリジナルの日蓮仏法」とやらを具体的に示せばよかろう。

ともあれ「創価教学」とやらの「狂い」の根本は「極理師伝」の否定にある。

よって「創価狂学」「創価凶学」が、元の正しい「大聖人仏法」に戻ることはない。

え?池田センセから「師伝」されている?

莫迦だなぁ~「極理」(法体)を持っていない大作センセが何を師伝するんだい?(笑)


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