創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

教学とは信心だよ

最近の創価活動家の教学離れには目を覆うものがある。

教学離れというレベルをはるかに超えて

最早、教学軽視といっていいレベルである。

昔から創価幹部・活動家にはその傾向はあった。

男子部活動家時代に幹部のわけわからない指導に

「そうことは御書に書いていないでしょ?」と反論すると

「教学あればいいってものじゃない。教学ばかりやると退転する」

な~んてよく言われた。

原島嵩氏を引き合いに出すのも常套句だ。

このブログを批判する多くの創価系ブログの管理人たちが

まったく同じロジックを書いているらしいが

いかにもダメ創価活動家(自称)らしい

相変わらずの金太郎飴のステレオタイプばかりで

本当に創価脳ってのはあるんだなぁってつくづく思う。

教学の重要性については何度も書いているが

何度書いても理解できないのが創価脳なんだろうね。

教学っていうのは「頭がいい」「頭が悪い」というカテゴリーの話ではない。

このブログでも「学術的」に大聖人仏法の教学について疑義を挟む人達がいたが

俺は決まって「信心がなければ」大聖人の法門法義は理解できない。

と言い続けた来た。

つまり学力と教学力は全く関係ないということだ。

求道心。つまり信心があるか?ないか?

その1点が教学力に差を生むのさ。

諸法実相抄に曰く

◆行学は信心よりをこるべく候、

教学は信心によって学ぶのである。

信心のない人は題目をあげない。のと同じように

信心のない人は教学を学ばない。のである。

故に「教学がない」ことを正当化するような人間は

信心がない。ということになる。

それを否定するのは上記の大聖人のお言葉を否定するということだ。

それとも、「題目なんてあげなくても信心があればいい」とか

「題目をあげすぎると退転する」とでも言うつもりか(笑)

「教学がなくても信心があればいい」などというのは

「題目をあげなくていい」と言っている事と同じである。

このようなことをいうヤツは

自分の信心のなさを正当化し隠蔽しているに過ぎない。

また、教学を単に頭のよしあしと捉えるのも

学術的に富士門流の教義に非難を加えようとする

無信心の僧俗のような発想で

仮にも「日蓮仏法」を語っているという自負があれば

そのような門外漢の人々と同レベルの

発想・発言をするとは何とも情けないではないか。

上記の諸法実相抄の御文の前後には

◆行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず

◆我もいたし人をも教化候へ

◆力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし

とのご教示を述べられている。

行学の二つはどちらが欠けても正しい仏法にならない。

人を教化し一文一句を語る為には正しい教学がなければ不可能だ。

ましてや、他者を破折するつもりであるならば尚更である。

御書の「一文」のあげることもできずに

一体何をもって邪宗を破折するのか?

ただ「日顕宗が悪い。日顕宗撲滅」

と書いたり言ったりしているのは

ヘイトスピーチを繰り返しているだけの

破折でもなんでもない印象操作に過ぎない。

まさ今の創価活動家のやっていることがソレだ。

それは折伏でも広宣流布でもなく、

単なる創価活動家達の名聞名利以外の何物でもない。

◇学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事

論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事

と日興遺誡置文のご指南の通り

いまの多くの創価活動家は、

「予が末流に叶う可からざる」輩である。

日興門流でないのだから日蓮大聖人の門流でもない。

もっとも日興門流であるなら

◇日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊(日興跡条条事)

を受持の対象から外すことなど絶対に有り得ないけどな。

ともあれ、「教学があっても信心が云々」という

幹部・活動家には気をつけたほうがよい。

このセリフの中には「教学なんかなくても私のほうが信心は上」という

憍慢・傲慢な生命がある。

そんな生命であるから真摯に教学を求めることができないのだ。

例えば一生懸命勉強をして東大に合格した人を

遊び呆けいた人間が

「あいつは頭がいいけど俺の方が人間としては偉い」

そう言ってるようなものである。

そう言う人は俺には偉いとは思えない。

単なる僻み嫉妬の類だろう。それは。

教学軽視の活動家も同じである。

自分が学ばないくせに、教学を学んだ人を見下すのは

単なる、僻み・嫉妬・愚痴

自分のそういう本性を知られたくないから

教学と信心を懸命に「分別」しようとする。

教学と信心は別物としようとするわけだ。

でもそうした考えは大聖人の教えに反しているのある。

教学とは信心なのだ

賢明な学会員のみなさんに教えます。

創価幹部・活動家の信心の程度を知る

一番早く確実な方法は「教学」の質問をすることです。

それにきちんと答えられるかどうか。

きちんと答えようとするどうか。

それでその人の信心を知ることができます。

大聖人の御書も引用せず

学会指導で誤魔化そうとする幹部・活動家を信じてはいけません。

そういう幹部・活動家は無信心でロクなもんじゃありません。

まずは根本の御本尊について聞いてみるのがいいでしょう。

本門本尊とは何か・

そして本門の本尊を受持しなくていい。という理由をね。

ここのブログにコメントしてきた創価の面々は

全員無回答で遁走劇を繰り広げたロクデナシばかりですが

さてあなたの地元の幹部はどうでしょうね。

ちゃんと信心のある幹部が組織に残っているといいですね。

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