創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

夏休みの宿題(死後の生命のこと)

今週から、休暇をとった途端に天気悪くほとんど雨。

明日から1泊で海に行くのだけど天気が悪そうでテンションも上がらない。

でもしっかり楽しんでくるけどね。

とその前に牡丹さんからの夏休みの宿題を済ませよう。

先日、牡丹さんから

【死後の生命は本当はどうなるのでしょう。】という

かなりヘヴィな出題をもらった。

しかも、書こうと思っていた「上野殿後家尼御返事」の一節を

先に古本屋店主さんに書かれてしまい途方にくれているわけで・・(笑)

とはいえ「死後も生命」という話は

折伏の時にもしばしば話題になるし

◆されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし(妙法尼御前御返事)

と大聖人も言われている。

自分自身も牡丹さん同様に「死んだらどうなる?」と

考えたことは何度もある。

結論だけ言ってしまえば「死んだことがないから分からない」のだが

さすがに仏法者として「死んでみなきゃ分からない」じゃぁちょっと無責任だよね。

ここから先はあくまでも、大聖人の御書等を読んでの

個人の考えを書くので、そのつもりで読んでもらいたのだけど

まず、創価活動家がよく言う

「死んだら宇宙に冥伏する」説があるが

あながち間違えとは思わないが、この「宇宙」の解釈が問題だ。

この「宇宙」というのをいわゆる誰もが想像する

天文学的な意味で使っているのならばそれは「間違い」だ。

「宇宙」という文言は御書にはないし

天文学的意味の「宇宙」というのは

「始まり」があるのだから当然「終わり」があることになる。

そうなるとそこに冥伏した生命もまた「有始有終」ということになり

生命は永遠。ということにならなくなってしまう。

故に大聖人仏法に即して言う場合の「宇宙」とは

天文学的な「宇宙」という意味ではなく

「宇宙法界」・・宇宙はいらないか。「法界」ということだろう。

「法界」をわかりやすく「宇宙」の言っているのであれば

「宇宙に冥伏」でもいいが、どうも創価活動家は

普通の意味で「宇宙」と言ってるフシがあるので

そうであれば創価の言ってることは間違っている。

死後の生命は「宇宙」に冥伏するのではなく

「法界」に冥伏する。それが正しいだろう。

では、「法界」とは何か?詳しい説明は省くとして、御書には

◆法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし(草木成仏口決)

とあるように、「法界」=「仏身」だ。

もちろんここでいう釈迦如来というのは文上の意で

文底の意でいうのであれば釈迦如来とは久遠元初自受用身である。

日寛上人は観心本尊抄文段で

◇自受用の身土は十法界の全体なり

◇「法界に遍あまねし」は自受用身なり

とご指南されている。

そしてこの自受用身とは御本仏大聖人のことであり

また戒壇大御本尊のことである。

「法界」=「仏身」=「大聖人(大御本尊)」という方程式であるから

死後の生命は御本仏の生命に冥伏する。

それがオレの結論である。

御本仏とは言え、当然一念三千の当体であるから

十界が存在する。

大御本尊を捨てれば死後その生命は「地獄界」に行くということだろう。

そして死後は自力ではそこから脱出できない。

ただし、「地獄界」とはいえ仏界(ご本仏の中の)所具の地獄界であるから

いつかは脱出できるがそれはいつだかわからない

大御本尊を捨てた謗法の者は、それまで無間地獄で苦しむことになる。

実に可哀想だと想うが、それが大聖人の仏法の法理だ。

とまぁ色々書いてきたが、

要約すれば全ての人は

「死後の生命は大御本尊の元に帰る」というのが俺の考えである。

大御本尊への信を貫いた者の臨終は千仏来迎であり、

謗法の者の臨終はその逆である。

◆我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず(顕立正意抄)

俺は大御本尊への信を貫き楽しい臨終を迎えたいと想う。

大聖人は信心を貫いた人の臨終は

◆退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ、妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならばあら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし金の繩を以つて八の道を界へり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり(松野殿御返事)

と言われている。

友人葬創価の導師も引用する一節だが

大御本尊を捨てたらこんな臨終は迎えられない。

そして、そのあとで大聖人と霊山でお会いする。

◆一流は未来え持せ給え霊山に於て日蓮日蓮と呼び給え、其の時御迎えに罷り出ず可く候。(遠藤左衛門尉御書)

なんと楽しい臨終ではないか。

そうなる事を信じ今世を退転なく生きていこうと思っている。

幸か不幸かその時には大御本尊を捨てた大作センセや創価活動家はそこにはいない。

◆信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべからず(松野殿御返事)

行き先は俺たちとは違う場所である。

この大聖人の言葉を信じるのあれば

早く「大御本尊」への信を取り戻すことだ。

人の一生なんて意外と短いからな。

以上で、牡丹さんからの「夏休みの宿題」は提出済。ということで。

明日は、雨だろうと何だろうと海で遊んでやる~

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