創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2021年9月座談会御書・四条金吾殿御返事)

四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、あしき名さへ流す況やよき名をや何に況や法華経ゆへの名をや

今月の座談会御書は「四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)」の上記の御文ですが3年ほど前にやっていますね。そして今回もまた3年と同じように創価的には学会員として社会や世間から信頼を得ましょう。という話をするんでしょうね。そんな感じでずっと同じこと言ってますよね。ところが宗門から魂の独立を果たして約30年が過ぎましたがまだ世間の創価学会への評価は変わっていませんよね(笑)私の周りでも「創価学会の○○さん」として有名な人が数人いますが悪評しか流していません。「良いウワサ」は聞きませんし、ましてや「法華経ゆえの名前」なんて皆無です。さて同じく四条金吾に与えられた「崇峻天皇御書」にも、

◆中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけりよかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ

と今回の御文と同じことをご指南されています。世間の中で素晴らしい人だと言われるべき理由として、1には「主の為」です。「主」とは現在でいうと、自分の仕事や商売また妻子など家族の為にということです。そして2としては「仏法の為」です。創価でもよく「法を下げる」などといいますが今の世間の人達は「いいこと」をしても「信仰者だから」とあまり言ってくれませんが「悪い事」をするとすぐに「信仰者なのに」と言われますのでやはり「心根のいい人だ」と思われるような振る舞いをすることが大切になります。とはいえ「悪名」も「美名」も今世・娑婆世間だけの評判に過ぎません。重要なのは「法華経故の名」です。「法華経故の名」は今世・娑婆世間の留まらず三世・十法界に広がるからです。日蓮大聖人は、

日蓮は日本第一のふたうの法師ただし法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり、其の名は十方の浄土にきこえぬ、定めて天地もしりぬらん日蓮が弟子となのらせ給はばいかなる悪鬼なりともよもしらぬよしは申さじとおぼすべし(妙心尼御前御返事)

とご自身の御名は十法界にとどろいていることを明かしています。ですから大聖人様の弟子である我々の名も十法界に広まっているのです。大聖人の弟子であるからこそ諸天善神もまた我々を守護するわけです。逆に大聖人を捨てた謗法者もまた「謗法者としての法華経の名」という悪名を十法界に広めているわけですら諸天の守護もないし閻魔大王の裁きものがれません。以前の記事にも書きましたが、

日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず(一谷入道御書)

との御妙判にあるようにいくら大聖人の弟子・大聖人直結と自称していてもその「判」つまり証拠がなければ十法界の衆生は信用してくれません。日寛上人は上記の「一谷入道御書」の御文を、

◆諸門流の曼荼羅には日蓮聖人の判なし云云、云云。相伝あり。 当門流の弟子檀那は、御判慥かにすわりたる手続の文書、本門の本尊を受持するが故に、決定して成仏すること疑なし(妙法曼荼羅供養抄文段)

と会通されています。「日蓮が判」とは総じては一大秘法たる本門戒壇大御本尊のことであり別しては正宗の歴代上人が書写した戒壇大御本尊の分身散影である御本尊のことです。当然ならが歴代上人書写の本尊であっても根源の戒壇大御本尊を受持しなければ「日蓮が判」を持っていない。ということになります。つまり創価民がいくら「大聖人の弟子である」といったところで諸天も諸仏も創価民の言う事は信用しないということです。「謗法者」として悪しき法華経の名を十法界に流すか、それとも大聖人の正統の弟子として「美名」を十法界にとどろかせるかは今世の信心次第です。学会員さんは今世の世間の中ですら「悪名」を流し続けている創価など早く退会し戒壇大御本尊の許に戻った方がいいと思いますよ。

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