創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(30年9月座談会御書・曾谷殿御返事)

此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり

今月の座談会御書は「曾谷殿御返事」の最後の一節から「一番大事な部分」を端折った一節です(笑)この「曾谷殿御返事」は対論でよく使われる「総別の二義」が書いてある御書ですね。創価はこの「総別の二義」とは文上法華経の総附属と別附属の事とか解釈しますがこの御書を最初から読めば創価の解釈がいかに取って付けかよくわかります。今日はその部分ではないので割愛しますが2ページほどの短い御書なので全編読んでみてください。

さて、今回の一節ですがまずは「此法門」を理解することが一番重要です。創価はこれを南無妙補蓮華経の法門とか言うけどじゃ南無妙法蓮華経の本門ってなんだよ?って話なんですよ。創価に聞けば「宇宙の法則」とか答えるのだろうが、「宇宙の法則」ってなんだよ?ってことです。当御書の冒頭に、

◆此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり、此の五字を地涌の大士を召し出して結要付属せしめ給う是を本化付属の法門とは云うなり。

と書かれていますね。この御文に照らせば南無妙法蓮華経とは、「地涌の大士」即ち上行菩薩に結要付属された法門の事です。では具体的に上行菩薩に別附属された南無妙法蓮華経の法門とは何かというと、

◆教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり(南条殿御返事)

◆此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり(御義口伝巻下)

との御文に言われているように「一大事の秘法」であり、その「一大事の秘法」とは「三大秘法」ということです。三大秘法は合すれば一大秘法の本門大御本尊となるので「一大事の秘法」とは「本門戒壇の大御本尊」を示されているのは明らかです。つまり本文中の「此法門」とは「大聖人仏法」の法門であり「大聖人仏法」の法門とは「戒壇大御本尊」の法門のことなんですね。この「法門」を言ったから大聖人は流罪せられ命にも及びしなり」となったのですが、大聖人が大難に合われた本当の所は「この法門」を語ったからではなく「この法門」を所持していたからです。所持していたからこそ釈迦・天台・伝教をも超える大難に合われた。それが大聖人がご本仏であることに現証です。創価大作や創価民ごときが「大聖人と我々と同じ仏である」などというのは烏滸がましいにも程があるし剰え「創価学会仏」なのどいう得体のしれない気持ち悪い「架空仏」を大聖人と同列に扱うに至ってはまさに増上慢ここに極まれりということです。そんなわけで大御本尊を捨てた創価民たちがどんなに「日蓮仏法をベースとした創価の教え」(鯛焼き支部長語録より)を「申して」もそれは「忠言」ではなく「讒言」「虚言」であってそれによって悪口罵詈されたところでそんなもん自業自得。いいかげん「懲りる」べきだろう。いや聞いてる方は懲り懲りですね。「公明党」「聖教新聞」「大作先生」・・そんなもん誰も聞きたくないわ。という話です。「法華経の種」とはいうまでもなく「一大秘法たる戒壇大御本尊」です。

それ以外に上行菩薩は何も附属など受けていない。種を植えるとは「聞法下種」ですから「大御本尊も事を語る」という事ですね。そして「聞法下種」の実践をしている人が「仏の使い」ということになり、この仏の使いを「地涌の菩薩」というのです。公明党の応援や聖教新聞の営業・大作先生の与太話をいくら話したところで「タダの莫迦」で「地涌の菩薩」ではないということを創価民さん達は自覚した方がいいでしょう。

さて、冒頭に書いた今回の座談会御書の範囲で創価の端折った御文は今回拝読の次下の

◆若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候

という御文なのですが、本当はここが一番大切なので補足しておきますと、「此等の義」と言われているのは本文中の

法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし

この御文の義のことです。「根源の師」というのは「植えて」である下種仏法の教主ですから当然大聖人です。

◆下種の法華経教主の本迹 自受用身は本上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり(百六箇抄)

日蓮大聖人とは戒壇大御本尊のことですから、この「根源の師」たる大御本尊を忘れて創価大作を「永遠の師匠」などと思って疑わない創価民に成仏はないのです。仏法というのはこの仏法上の師弟を正していくところに成仏の道が開けるのです。

日興上人の「渡国法華講衆御返事」の中のご指南に

◇なをなをこのほうもんハしてしをたゝしてほとけになり候。してしたにもちかい候へハおなしほくゑをたもちまいらせて候へともむけんちこくにおち候也。

【なおなおこの法門 は、師弟子を糾して仏になり候。師弟子だにも違ひ候へば、同じ法華を持まいらせて候へども、無間地獄に堕ち候也。】

とあり、日有上人の化義抄のご指南にも

◇手続の師匠の所は三世の諸仏、高祖已来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし

とあります。師弟子を正すというのは、「唯受一人血脈相承」に信を取る時に戒壇大御本尊即日蓮大聖人へつながっていくということです。つまり唯受一人血脈と大御本尊は全く変わらないということです。創価民にはどうしてもそれが理解できない。いくら大作と師弟の契りを結ぼうが大聖人には繋がらないわけです。「直結信心」なんて言ってはいるが、大御本尊にお目通りもしなければ供養もしないで「直結」も「クソ」もないわけです。いずれによ今の創価活動民は大聖人仏法の法門など「語りたくても語れない」のです。何故そうなったか?それは「根源の師」を忘れ創価大作のような謗法者を「師」としたからです。今回の御書にも書いてあります。

◆但し師なりとも誤ある者をば捨つべし

と。会ったこともないけど大作センセが大好きなのは分かりましたが。本当に成仏をしたいのであれば、または本当に日蓮大聖人をご本仏として信じているのであれば、まずは「謗法の師」である大作センセを捨て、「謗法団体」である創価から離れるべきです。

そして冷静になって自分自身の信仰を見直すことをおススメして今月の御書講義を終わりにします。


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