創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

戒壇大御本尊が唯一無二な理由

戒壇大御本尊と自余の本尊を全く同じという創価民のために今日は戒壇大御本尊と自余の本尊と違う理由を簡単に書いてみます。(とりあえず長くなるので文証は割愛します)まず第一に、戒壇大御本尊は【大聖人の出世の本懐の御本尊】です。聖人御難事に「余は二十七年なり」と明確に宣言されています。いまの創価民はこの27年を難を受けた年数だなどという身延同様の解釈をするが前後の文との繋がりで読めばこの27年が出世の本懐について述べているのは明らかです。そもそも仏の出生の本懐とは難にあうことではなく一大事因縁であり「一大事」とは大聖人の仏法では三大秘法ですから「余は27年」といわれた弘安2年の本尊で三大秘法の本門の本尊に耐えうる本尊は戒壇大御本尊以外にはありません。

次に戒壇大御本尊は【随自意の本尊】です。大聖人の御本尊の多くは各信徒に与えられた本尊ですからいわば【随他意の本尊】です。大聖人御入滅後の書写本尊は全て【随他意の本尊】です。確かに佐渡始顕本尊や保田の万年供御本尊も「随自意の本尊」と言えますが逆にこれらの本尊には対告衆がいないので仏の説法ではありません。戒壇大御本尊だけが仏の説法たる【随自意の本尊】です。釈迦の出世の本懐たる法華経も「随自意」です。【随自意の本尊】とは【仏(大聖人)の出世の本懐である本尊】ということなのです。

3番目に戒壇大御本尊は【日興上人に相伝した本尊】です。日興上人に相伝した本尊とは、言い換えれば大聖人の一期の弘法の本体であるということです。また広宣流布の暁には事相の戒壇である「本門寺」の本堂にご安置される唯一の本尊なのです。

最後に、これは何度か書いたけど戒壇大御本尊は唯一【悪口罵詈の難を受けている本尊】です。自余の本尊は悪口罵詈などされない。戒壇大御本尊けが大聖人滅後から現在まで数百年に亘り悪口罵詈され続けている本尊なのです。つまりこれは戒壇大御本尊が生身の日蓮大聖人であるということの証左なのです。

すごく簡単に説明しましたがこれだけでも戒壇大御本尊が自徐の本尊と「全く同じ」ではないことがわかります。他の御真筆の本尊と比べても雲泥の差があります。ましてや創価のカラコピ本尊風掛け軸と「全く同じ」であるわけない。文理そして現証どれをとっても創価本尊と戒壇大御本尊が「全く同じ」という結論はでません。創価本尊は出世の本懐の本尊ではありません。そもそもが大聖人の御真筆ではないしそれぞれ願主に求められて書写された随他意の本尊ですから。また創価民の各自の本尊に至っては他の願主に与えられた本尊を改竄コピーしたモノですから随他意の本尊ですらありません。また創価広宣流布をしていると言いますが、仮に創価広宣流布したところで事相の戒壇たる本門寺の本堂にご安置できる本尊がありません。(これは顕正会も同じです)大聖人・日興上人は弘安二年の戒壇大御本尊を本門寺の本堂にご安置するように遺命されているわけですからいくら創価民が「広宣流布をしている」と言っても戒壇大御本尊捨てた創価には広宣流布はできないわけです。さらに言えば創価本尊が悪口罵詈されたという事実はどこにもありません。こう書くと創価民達は正宗・法華講に「ニセ本尊」と悪口罵詈されていると反論するでしょうが、「偽物を偽物という」のは悪口罵詈ではなく真実を言っているだけです。もしもそうではないというのであればその論拠を示す必要があります。大聖人の出世の本懐でもなければ真筆でもなく、大聖人の随自意の本尊でもなく。広宣流布の暁に本門寺の本堂にご安置もできない創価本尊の一体何が「戒壇大御本尊と全く同じ」なのか?その説明をちゃんとできる創価民がいるなら申し出てきて欲しいものです。いずれにしても、創価本尊もまた自余の本尊も「全く同じ本門の本尊」というのは創価のウソです。戒壇大御本尊こそが唯一無二の大聖人の色心の二法の法体の本尊でありこれをもって一大秘法というのです。この唯一無二の戒壇大御本尊に信をとらなければ真筆の本尊であってもそこに仏力・法力は宿らない。自宅の本尊も分身散体の本尊になりえないのです。また戒壇大御本尊を自余の本尊と全く同じなどと思い発言する事は「砕尊入卑」の謗法なのです。戒壇大御本尊とは日蓮大聖人なのですよ。わかりますか?学会員さん。


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