創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

生身の日蓮大聖人。

戒壇大御本尊は生身の日蓮大聖人」法華講員ならば、いや日興門流の僧俗であれば誰しも当然のように分かっていることなんだがどうも最近の創価民にはよく理解できないらしい。日頃から「生命は永遠だ」とか生命について偉そうに能書きをたてれいる割には「生身」ときくと、「生物学的に生存している状態」であることだとパンピーと変わらない解釈をする創価民も多く「戒壇大御本尊を生身の大聖人」と思えないらしい。どうやら一念三千から勉強しなおさなければいけないくらいに今の創価の教学力は低下しているようだ。そんな教学力のない創価民達に草木成仏の法義を聞かせた所で犬が星を見ているようなもので理解できないだろう。理解できていたら「塔婆不要」とか「塔婆は坊主の金儲け」などという発想にはならないからね。なので今日は草木成仏の話は置いておき別の角度から話をする。大聖人の仏法の信仰者は当然のことだが日蓮大聖人をご本仏と信じる人達だ。そのご本仏が住む本国土とはどこか?というと創価民もいつも読んでいるかもしれない寿量品の自我偈に【常住此説法】とあるようにこの娑婆世界がご本仏の住む国土である。よって日蓮大聖人はご本仏(久遠元初自受用報身如来)として久遠元初以来常にこの娑婆世界にずっと存在しているわけだ。そして末法鎌倉時代に人間の姿(日蓮大聖人)で顕れ末法の法体を末法万年の衆生の為に顕され涅槃されるがこれは【方便現涅槃】つまり方便として涅槃する姿を顕しただけで実は死んではいない。いや寧ろ人間の姿をして生まれた来た方が「方便」と言えるだろう。仏身とは法・報・応の三身だが大聖人は三身即一身の仏身である。このうちの応身というのは何も人間の生身(なまみ)に限定されるわけでない。それが草木であっても応身という。何故なら応身とか仮の姿だからだ。さてそこでもしも人間の日蓮大聖人がご入滅して魂が宇宙に遍満してしまったら応身としての仏身が

現わていないいなのだから、一身即二身にしかならず、無作三身しから無作二身になってしまう。また【常住此説法】の言葉は妄語となってしまう。そんなことは大聖人の仏法においてはあり得ない。大聖人はご入滅後も無作三身のご本仏としてこの娑婆世界に厳として存在している。そう信じるのが大聖人の仏法の信仰者だ。では一体それは具多的に何処に存在しているのか?という話になるが、基本的には大聖人の認められたご本尊いづれかが生身の大聖人の体ということになる。書写本尊は大聖人のご入滅とのタイムラグがあるので「生身の大聖人」にはなりえない。つまり創価本部の本尊は「生身の大聖人」ではない。では大聖人のご真筆のいづれが「生身の大聖人」であるかと言えば、前回記事に書いたように弘安二年ご建立の戒壇大御本尊以外にないのである。

戒壇大御本尊が唯一無二な理由

前回記事に書いたように戒壇大御本尊が「生身の日蓮大聖人である」という理由はたくさんある。自余の真筆のご本尊も検討してしてみたが戒壇大御本尊を差し置いて「生身の大聖人である本尊」である理由が全く見つからない。「生身の大聖人」たるご本尊は戒壇大御本尊以外に考えられないのだ。これは先に結論ありきではなく何年も自分で思索した結果だ。「戒壇大御本尊は常住此説法の生身の日蓮大聖人」それ以外に他に「生身の大聖人」は存在しない。「生身の大聖人」は一人しかいないのである。その生身の大聖人たる戒壇大御本尊を捨てるということは大聖人を捨てるということなのである。大聖人を捨てた人間が大聖人の認めたご本尊と同じ図柄の本尊を持っていようと何の意味もないし、大聖人を捨てた人間が南無妙法蓮華経の題目を唱えた所で悪業を積むだけの行為にしかならない。もしも「戒壇大御本尊」が「生身の大聖人」ではないというなら、三身即一身の仏身で常住此説法のご本仏は具体的にこの娑婆世界のどこにどんな応身如来としての姿で存在しているのかハッキリと示してから言うべきだろう。また全ての本尊が「生身の大聖人」というならキチンとその論拠を示さなければそれは単なる願望・妄想の類だ。一般会員さんは是非地元の幹部にそれを尋ねて欲しい。もしも創価幹部が具体的にそれを示せないのなら戒壇大御本尊を受持しなくても幸福になれるなどといういうのは無責任な与太話だ。無責任な創価の幹部・活動家のウソ仏法話を信じて創価信仰を続けることに何の意味があるのか考えてくださいな。


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