創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

大聖人と釈迦如来(PPPさんの質問への回答)

PPPさんから大聖人と釈迦如来の関係についてのご質問がありましたまので今日はその件について書きます。大聖人と釈迦如来の関係というのは大聖人仏法の根幹部分です。遠くは五老僧がそして近くは創価がこれに迷い邪教化していったわけです。さて、PPPさんがの質問は、

★大聖人と釈迦如来との関係性がよくわかりません。両者は本仏と迹仏の関係なのか、三変土田の分身仏は迹仏の分身なのか、それとも「下種の法主」と「熟脱の教主」という役割の違う本仏が違う時代に存在するのか、そうすると久遠実成と矛盾するのではないか、といった具合にさっぱりわかりません。

とのことですが、結論からいうと釈迦如来はご本仏大聖人(久遠元初自受用身)の迹仏です。この釈迦如来には蔵・通・別・迹・本・底の6種の教主釈尊がありますが、底の釈尊とは南無妙法蓮華経即大聖人ですからPPPさんの言う所の釈迦如来は「底の釈尊」を除きます。残りの5種の釈迦如来のうち根本となるのは久遠実成の法華本門の釈尊です。この久遠実成の釈迦から以下の仏は久遠実成の釈尊垂迹の仏です。よって分身仏もまた全て迹仏の分身になります。この久成(久遠実成)の釈尊が迹仏の理由は、久成の仏は「本果仏」だからです。寿量文上には久成の釈迦が成仏した理由は「我本行菩薩道」とだけ書かれていますがこの菩薩道の修行内容は書かれていません。また「我本菩薩道」の修行をしていたということは既に五百塵点劫の釈尊は「菩薩の位」だったわけですから、では五百塵点劫に釈尊が菩薩の位まで昇った根本的な修行は何だったのか?のが重要でそれが「本因」(成仏の根本の因)というわけです。

◇師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云。応に知るべし、後々の位に登ることは前々の行に由ることを云云。(三重秘伝鈔)

この本因については三世諸仏総勘文抄・当体義抄に書かれていますが結論だけ書くと「南無妙法蓮華経」です。法に約せば「一念三千」で人に訳せば「久遠元初自受用身」ですがこの人と法は一体でありそれが大聖人の本地ですので「本因妙の仏」つまり本仏です。対して釈迦如来の本地である五百塵点劫の釈尊はこの本因の仏の垂迹仏です。

◆凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり(諸法実相抄)

の御文のあるように「凡夫仏」=「無作三身如来」である日蓮大聖人が「本仏」であり、色相荘厳の仏である久成釈迦仏は「本仏」の働きを示した迹仏です。久成釈迦仏以下の仏は全て久成釈迦仏の「用」ですから「用の用」となります。

◆本果妙は然我実成仏已来猶迹門なり、迹の本は本に非ざるなり、本因妙は我本行菩薩道真実の本門なり、本の迹は迹に非ず(百六箇抄)

の御文を「人(仏)」に約すと、釈迦如来の「本(地)」である久遠実成の釈迦は既に「迹仏」であるから「本仏」ではない。ただし本仏である大聖人を根本と見れば久遠実成の釈迦も「本仏の迹」であるから単なる「迹仏」ではなく「本仏の迹」ということになります。なんだかややこしいとは思いますがまとめますと、大聖人は「本」釈迦如来は「迹」、大聖人は「体」釈迦如来は「用」、大聖人は「因」釈迦如来は「果」、大聖人は「能」釈迦如来は「所」といった関係でしょうか。ですから決して大聖人と釈迦如来が全く別な存在ではないのでが対等でもありません。何故なら迹仏は本仏が存在がなければ存在できないからです。なので釈迦仏を本仏に立てることは実体のない仏を本仏に立てることになり、仏に実体がないのでその働きにも実体がない。つまり事実で上での成仏はない。ということです。いまの創価の本尊義も「人(仏)」という視点で観れば、本仏の体である戒壇大御本尊を捨てれば戒壇大御本尊を誰が書写しようと、「迹の本が迹」なので実体がありません。誤解を招くかもしれませんがPPPさんの言に即せ、「人」の視点で観れば、戒壇大御本尊は「本仏」自余の大聖人のご真筆は「迹仏」書写の本尊は「分身仏」という関係です。もっとも今の創価にとって本尊は仏でなく、単なる「宇宙の法則」ですから御本尊を「仏」として見られないのですね。また破門後の創価教学はそのように会員さんを洗脳してきたわけです。戒壇大御本尊も自余の本尊もみな同じというロジックは、大聖人も釈迦も大日も阿弥陀も「みな同じ仏様で差別はない」と言っているのと同じです。そんな中で「仏」という観点をもって思索をするPPPさんの姿勢は素晴らしいと思います。「仏法」とは「仏の法」であって「宇宙の法」ではありませんから。


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