創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

六巻抄拝読の為の基礎知識④(三重秘伝抄③)

今日は、【一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘し沈めたまえり、竜樹・天親は知って而も弘めたまわず、但我が天台智者のみ此れを懐けり等云云。】の文の10の義の前回の続きです。

第六に本迹相対して一念三千を明かすことを示すとは

前回第5段では「但法華経」の部分の権実相対の義のご指南でしたが、第6段は「(但)本門寿量品」の文の本迹相対の義を明かされています。冒頭に【諸抄の中に二文あり。一には迹本倶に一念三千と名づけ、二には迹は百界千如と名づけ、本を一念三千と名づく】と書かれています。これは御書(諸抄)には本迹共に一念三千としている御書もあるし、本門だけを一念三千としている御書もあるとということです。何故迹門にも一念三千が説かれているとするのかというと法華経迹門は理の一念三千が説かれますので権経に対すれば法華経の本迹全てに一念三千が説かれているという意味でこれは「与えて」いう立場です。しかし法華経だけを見ると本当の一念三千は迹門にはなく本門のみにある(本迹相対)これは「奪って」言う立場です。このように「与奪の二釈」があるということです。御書には「与奪」以外にも「能所」「総別」「理事」などの立て分けがあり創価切文教学ではそれを無視し創価民はそれを理解できないのでいつまでたっても低レベルのままなのですね。さてでは何故迹門に真実の一念三千が無いかというと、【然りと雖も未だ発迹顕本せざれば真の一念三千も顕われず、二乗作仏も定まらず】

と言われているように仏の本地=久遠実成が説かれていなので迹門は迹仏の教えだということです。「水中の月」とは真の一念三千が説かれていない事を、「根無し草」とは二乗作仏が定まっていない事をそれぞれ譬えています。発迹顕本されていない迹門は本無今有(大元がなくて今がある)であり有名無実であるということを説明されてます。大御本尊への信は無く自宅のカラコピ本尊風に掛け軸を信じている創価民なんかは「本無今有」ですよね。そしてその説明の後に日講の啓蒙に書かれている邪義の破折があります。「啓蒙」とは「録内啓蒙」という日講の書で「録内」ないとは御書目録といって大聖人滅後に六老僧が目録に残した御書ですが実際に六老僧が集まって目録を作ったという史実は今のところ確認されていません。(もちろん録外御書もあります)何はともあれ「啓蒙」とは日講の御書解釈の書です。そこで日講は本迹一致の邪義を書いているのですが、ここでは日講の邪義として1つ目は【未発迹の未の字本迹一致の証拠なり、已に発迹顕本し畢れば迹は即ち本なるが故なり】と「未発迹」の「未」の字が本迹一致の証拠だというものです。発迹顕本すれば迹も本になるということなのですが。日寛上人は「だったら法華経が説かれたら未顕真実の権経も実経になって権が実になるのかよ」といいます。そこで日講は「本迹の話しているのに権実の話するのはおかしいだろう。それなら大聖人はなんで予が読むところの迹と言って方便品を読むのに、予が読むところの権といって弥陀経を読まないんだ」と反論しますが、そこで日寛上人は「オマエの言ってるのは修行のはなしだろう。今は法体の話をしているのに修行の話をしんじゃね~よ(笑)」と言って破折するわけです。まさにこれ、日講と創価民は同じですね。創価のインチキ勤行の破折をすると彼らは「法体」の説明をしている御書の切文を持ち出すんですよね。修行と法体の区別がつかない創価民はまさに啓蒙日講そのものです。で、2つ目の日講の邪義は【既に二乗作仏の下に於いて多宝・分身を引いて真実の旨を定むる故に未発迹顕本の時も真の一念三千にして二乗作仏も定まれり】つまり「迹門の二乗作仏は迹門宝塔品で釈迦・多宝が真実と証明したのだから迹門で二乗作仏を定まっている」ということなんですが、日寛上人は「日講は幼稚過ぎ。宝塔品での二仏の証明は爾前・権経に対して法華経は真実であると証明したんだろうが。開目抄にそう書いてあるだろうが」と破折したわけです。所体が何なのか知らずに切文攻撃をしてくる創価民はやっぱり日講と同じです。まぁそんな感じのことがこの段の後半には書いてあります。因みに日講は日寛上人とほぼ同時期の人ですが直接日寛上人と日講の問答はありません。また上記の日寛上人の部分の記述はあくまでも私の個人的な通解です(笑)

第七に種脱相対して一念三千を明かすことを示すとは

第7段は「(但)文の底に秘し沈めたまえり」の分の種脱相対の義の説明です。最初に【今「文底秘沈」と言うは上に論ずる所の三千は猶是れ脱益にして未だ是れ下種ならず、若し其れ下種の三千は但文底に在るが故なり】と本迹相対の話はしたけどこれらは脱益の一念三千であって下種の一念三千は寿量品の文底にあるとご指南されています。下種には聞法下種と発心下種とありますが、発心下種は本迹に亘っていますが聞法下種は本門寿量文底の妙法五字に限られるということです。つまり発心するのは様々な理由があって当然ですが信じる法体は妙法五字=戒壇大御本尊に限られるということです。どんな理由で信心しようとも戒壇大御本尊を信じることが大切です。何故なら【下種の三千は但文底に在るが故なり】だからです。次の寿量品のどの文底に一念三千が在るのかの解釈を日講の啓蒙の説を中心に列挙した後にそれらは全て文上であり文底ではないとと退け【本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云。応に知るべし、後々の位に登ることは前々の行に由ることを云云。】とご指南され「本因初住」の文である「我本行菩薩道」の文底に久遠の妙法である事の一念三千が秘沈されているとご指南されます。「我本行菩薩道」とは釈迦久遠実成の因ですが「菩薩道」を行じているので天台の52位の位では凡夫ではなく「初住」の位です。しかし「初住の位」になるまでの修行や因が法華経では説かれていません。釈迦が「初住の位」の昇った本源の力・本当に因が久遠名字の妙法であるのです。そしてこの久遠名字の妙法から見れば、法華経の迹門も本門もどちらも迹門になるというわけです。この段の最後に「それでは久遠名字の妙法の体とは何か?」と問いがありますがこの三重秘伝抄では明かさず、ただ「当体義抄」と「総勘文抄」を読みなさいといって終わります。つまり妙法体を知るには「当体義抄」と「総勘文抄」の両方を相互投影して読まないと理解できないということです。創価民は切文教学だから「宇宙の法則」とかバカな事をいいだすわけです。

というわけで今回はここまでです。長くなってしまったので続きは次回にします。次回で三重秘伝抄は終了するつもりです。


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