創価ダメだしブログ

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『化義抄』を学ぶ㉕(116条)

記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。

116条は長い御指南なので日達上人の『化義抄略解』の沿って3分割します。

 

【第116条①】釈尊一代の説教に於て権実本迹の二筋あり、権実とは法華己前は仏の権智、法華経は仏の実智なり、所詮釈尊一代の正機に法華以前に仏の権智を示めさるれば機も権智を受くるなり。さて法華経にて仏の実智を示さるれば又機も仏の実智の分を受くるなり、されば妙楽の釈に云く権実約智約数と訳して権実とは智に約し教に約す、智とは権智実智なり、教に約すとは、蔵通別の三教は権教なり、円教は実教なり、法華已前には蔵通別の権教を受くるなり、本迹とは身に約し位に約すなり、仏身に於て因果の身在す、故に本因妙の身は本、本果の身より迹の方へ取るなり、夫れとは修一円因、感一円果の自身自行の成道なれども既に成道と云う故に断惑証理の迹の方へ取るなり、夫より巳来機を目にかけて世々番々の成道を唱え在すは皆垂迹の成道なり、華厳の成道と云うも迹の成道なり、故に今日、華厳、阿含、方等、般若、法華の五時の法輪、法華経の本迹も皆迹仏の説教なる故に本迹共に迹なり、今日の寿量品と云うも迹中の寿量なり、されば経に約すれば是れ本門なりと雖も文

冒頭で釈迦仏法(釈尊一代説法)には、大きく分けて権実相対と本迹相対の二筋があると言われています。権実相対に中には五重の相対の内外・大小も含まれます。そして妙楽の釈を引き権実相対は教に約し、実教(法華経)の本迹相対は仏身とその位に約して相対しているとご指南されています。仏身に約すと法華経迹門の仏身は始成正覚の釈尊であり本門は久遠実成の釈尊ですから迹より本が勝っています。この久遠実成の釈尊は本因妙を修行して成仏(本果)に至りその後に迹仏として様々な法を説いています。それは法華経も同様で、法華経本門と言っても迹仏である始成正覚の釈尊が説いた教えですから法華文上でいえば本迹ともに【迹】になります。

【第116条②】さて本門は如何と云うに久遠の遠本本因妙の所なり、夫れとは下種の本なり、下種とは一文不通の信計りなる所、受持の一行の本なり、夫とは信の所は種なり心田に初めて信の種を下す所が本門なり、是れを智慧解了を以てそだつる所は迹なり、されば種熟脱の位を円教の六即にて心得る時、名字の初心は種の位、観行相似は熱の位分真究寛は脱の位なり、脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかえるなり、釈に云く脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐと訳して、脱は地住已上に有れども具に本種にあぐると釈する是れなり、此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり、皆本門の益なり、仍って迹門無得道の法門は出来するなり、是れ則ち法華経の本意減後末法の今の時なり。

では【本門】とは何か?ということになりますが、これは五百塵点劫の久遠実成より更に前の遠い昔の本因妙にあると言われています。つまり久遠元初です。この久遠元初の仏の教えが下種の根本であり、下種とは文字も通用しない(一文不通)の無智の衆生に受持させる一番最初で根本の説法です。ですから久遠元初(本因妙)の仏が受持する法体が本門でありそれ以外の教えは全て【迹】になります。そして本因妙の仏の位を論じれば六即の中の【名字即】という信心を始めたばかりの凡夫の位だというのです。これは【等覚一転名字妙覚】という事で下のリンク記事を参考にしてください。

■過去記事(参考記事)▶等覚一転名字妙覚について(RAMBOさんの質問) - 創価ダメだしブログ

このように過去に下種を受けていない末法衆生においては下種益である南無妙法蓮華経のみが本門であって他の教えは全て迹門ということになるのです。よって南無妙法蓮華経を文底秘沈させた釈尊法華経末法の為に説かれたというのが法華経・釈迦仏の本意だということです。

【第116条③】されば日蓮聖人御書にも本門八品とあそばすと題目の五字とあそばすは同じ意なり、夫とは涌出品の時、地涌千界の涌現は五字の付属を受けて末法の今の時の衆生を利益せん為なるが故に地涌の在す間は滅後なり、夫れとは涌出、寿量、分別功徳、随喜功徳、法師功徳、不軽、神力、嘱累の八品の間、地涌の菩薩在す故に此の時は本門正宗の寿量品も滅後の寿量と成るなり、其の故は住本顕本の種の方なるべし、さて脱の方は本門正宗一品二半なり、夫れとは涌出品の半品、寿量の一品、分別功徳品の半品合して一品二半なり、是れは迹中本門の正宗なり、是れとは在世の機の所用なり、滅後の為には種の方の題目の五字なり、観心本尊抄に彼は一品二半、是れは但題目の五字なりと遊す是なり云云。

ですから地涌の菩薩が出現してから去っていくまでを説いた八品と題目の五字は同じ意味で大聖人は御指南あそばされいると言われています。釈尊が寿量品を在世の衆生の為に説いたと見ればそれは【脱益】の教えですが仏の本意で本を顕わせば(住本顕本)末法衆生のための【下種益】の教えとなります。脱益の教えの中心は寿量品の一品二半ですがこれは迹中の本であり、末法衆生のための教えは寿量文底の妙法五字であると御指南され当条項を結んでいます。さて、当条項は『化義抄』の中で唯一化法に関する御指南になっています。この御指南は大石寺の基本で他にの類文は多数あり日亨上人は登場に敢えて註解を加えていません。個人的には冒頭の【本迹とは身に約し位に約すなり】の御指南が非常に心に刺さっています。仏身に約すとは観心釈です。信仰者として重要なのは観心釈ができるかどうかでありこの観心釈は師弟相対しいかないと理解できません。(この件は長くなるので別機会に書きます)非常に重要な御指南であると思ってます。

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